どのように勢力を広げた?
元就は正面からの決戦を避け、調略・偽情報・地形の利用で兵力差を消す戦い方を徹底しました。厳島の戦いはその典型です。
一族の再編も特徴的です。次男・元春を吉川家へ、三男・隆景を小早川家へ養子に入れ、安芸の有力国人を毛利の指揮系統に組み込みました。この「毛利両川」体制が、本家を支える柱になります。
大内滅亡後は防長二国を、尼子滅亡後は山陰を得て、最大で中国地方10か国に及びました。石見銀山の確保も財政面で大きな意味を持ちます。
毛利氏は安芸吉田を治める国人でした。大内氏と尼子氏という二大勢力に挟まれ、どちらにつくかで存亡が決まる立場にあります。
毛利元就は次男を吉川家、三男を小早川家に入れて周囲の有力国人を一族に組み込み(毛利両川)、1555年の厳島の戦いで陶晴賢を破って大内領を吸収しました。
1566年に尼子氏を滅ぼして中国地方をほぼ制圧。孫の輝元の代に豊臣政権の五大老となりますが、関ヶ原で西軍の総大将に担がれ、37万石へ削られました。
安芸国(吉田郡山城)→広島城
毛利元就
1523年〜1571年
一国人から中国地方の覇者へ。謀略と外交で兵力差を覆した。
毛利隆元
(当主在任1546年〜1563年)
元就の長男。父より先に急死したため、家督は孫の輝元へ移った。
毛利輝元
1571年〜1625年
五大老の一人。関ヶ原で西軍の総大将となり、周防・長門2か国へ減封された。
元就は正面からの決戦を避け、調略・偽情報・地形の利用で兵力差を消す戦い方を徹底しました。厳島の戦いはその典型です。
一族の再編も特徴的です。次男・元春を吉川家へ、三男・隆景を小早川家へ養子に入れ、安芸の有力国人を毛利の指揮系統に組み込みました。この「毛利両川」体制が、本家を支える柱になります。
大内滅亡後は防長二国を、尼子滅亡後は山陰を得て、最大で中国地方10か国に及びました。石見銀山の確保も財政面で大きな意味を持ちます。
1570年代前半、元就の晩年から輝元の初期が最大版図です。中国地方のほぼ全域に加え、北九州にも影響力を持っていました。
1555年10月
安芸国・厳島
1565年〜1566年
出雲国・月山富田城
1578年
播磨国・上月城
1585年
四国全域
1587年
九州全域
1590年
相模国・小田原城
織田信長の中国攻めで守勢に回り、備中高松城の水攻めの最中に本能寺の変が起きます。毛利は追撃せず、以後は秀吉に協力する立場へ移りました。
関ヶ原では輝元が西軍総大将に担がれながら大坂城を動かず、南宮山の吉川広家は不戦を約束していました。戦後、120万石から周防・長門37万石へ減封されます。
減封後の毛利家は長州藩となり、幕末に倒幕の中心勢力となりました。