毛利氏とは?本拠・当主・勢力の広がり

毛利氏を30秒で

毛利氏は安芸吉田を治める国人でした。大内氏と尼子氏という二大勢力に挟まれ、どちらにつくかで存亡が決まる立場にあります。

毛利元就は次男を吉川家、三男を小早川家に入れて周囲の有力国人を一族に組み込み(毛利両川)、1555年の厳島の戦いで陶晴賢を破って大内領を吸収しました。

1566年に尼子氏を滅ぼして中国地方をほぼ制圧。孫の輝元の代に豊臣政権の五大老となりますが、関ヶ原で西軍の総大将に担がれ、37万石へ削られました。

本拠と領域

安芸国(吉田郡山城)→広島城

歴代当主

  1. 毛利元就のAI生成イメージ 毛利元就 1523年〜1571年 一国人から中国地方の覇者へ。謀略と外交で兵力差を覆した。
  2. 毛利隆元のAI生成イメージ 毛利隆元 (当主在任1546年〜1563年) 元就の長男。父より先に急死したため、家督は孫の輝元へ移った。
  3. 毛利輝元のAI生成イメージ 毛利輝元 1571年〜1625年 五大老の一人。関ヶ原で西軍の総大将となり、周防・長門2か国へ減封された。

どのように勢力を広げた?

元就は正面からの決戦を避け、調略・偽情報・地形の利用で兵力差を消す戦い方を徹底しました。厳島の戦いはその典型です。

一族の再編も特徴的です。次男・元春を吉川家へ、三男・隆景を小早川家へ養子に入れ、安芸の有力国人を毛利の指揮系統に組み込みました。この「毛利両川」体制が、本家を支える柱になります。

大内滅亡後は防長二国を、尼子滅亡後は山陰を得て、最大で中国地方10か国に及びました。石見銀山の確保も財政面で大きな意味を持ちます。

最盛期

1570年代前半、元就の晩年から輝元の初期が最大版図です。中国地方のほぼ全域に加え、北九州にも影響力を持っていました。

主な合戦

他勢力との関係

大内氏
当初は従属。陶晴賢の謀反後に敵対し、厳島で破って領国を吸収した。
尼子氏
長年の宿敵。月山富田城を兵糧攻めで落として滅ぼした。
織田氏・豊臣氏
中国攻めで争ったが、本能寺の変後は講和。以後は豊臣政権に協力した。
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衰退・その後

織田信長の中国攻めで守勢に回り、備中高松城の水攻めの最中に本能寺の変が起きます。毛利は追撃せず、以後は秀吉に協力する立場へ移りました。

関ヶ原では輝元が西軍総大将に担がれながら大坂城を動かず、南宮山の吉川広家は不戦を約束していました。戦後、120万石から周防・長門37万石へ減封されます。

減封後の毛利家は長州藩となり、幕末に倒幕の中心勢力となりました。

関連グループ

毛利氏に属した武将(8人)

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