なぜ月山富田城の戦いは起きた?
尼子氏は出雲を本拠に山陰・山陽へ勢力を広げていましたが、当主・尼子晴久の急死(1560年)で動揺します。跡を継いだ義久のもとで、家中の結束は以前ほどではありませんでした。
厳島の戦いと防長経略で大内領を吸収した毛利元就にとって、残る対抗勢力は尼子だけでした。
戦う直前の状況
元就は1542年、大内義隆に従って月山富田城を攻めて大敗した経験があります(第一次月山富田城の戦い)。堅城を力で落とすのは無理だと分かっていました。
1565年〜1566年|出雲国・月山富田城
毛利元就が出雲の尼子氏の本拠・月山富田城を兵糧攻めで落とし、戦国大名としての尼子氏を滅ぼした戦いです。
月山富田城は山陰随一の堅城で、元就は正面攻撃で一度大敗しています。二度目は補給路を断ち、1年以上かけて城内を飢えさせました。
中国地方から尼子氏という対抗勢力が消え、毛利氏の支配が確定します。
| 戦名 | 月山富田城の戦い |
|---|---|
| 時期 | 1565年〜1566年 |
| 場所 | 出雲国・月山富田城 |
| 現在の場所 | 島根県安来市広瀬町(月山富田城跡) |
| 両軍 | 毛利軍 vs 尼子軍 |
| 主な武将 | 毛利元就、吉川元春、小早川隆景、山中鹿介 |
| 結果 | 毛利軍の勝利(尼子氏滅亡) |
尼子氏は出雲を本拠に山陰・山陽へ勢力を広げていましたが、当主・尼子晴久の急死(1560年)で動揺します。跡を継いだ義久のもとで、家中の結束は以前ほどではありませんでした。
厳島の戦いと防長経略で大内領を吸収した毛利元就にとって、残る対抗勢力は尼子だけでした。
元就は1542年、大内義隆に従って月山富田城を攻めて大敗した経験があります(第一次月山富田城の戦い)。堅城を力で落とすのは無理だと分かっていました。
兵力の数字は、軍記物に由来するものを含め史料によって大きく開きがあります。ここでは広く引かれている数値を挙げていますが、実数はこれより少なかったとする研究もあります。
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誰がどこで動き、どの勢力がぶつかったのか。参戦武将をタップしながら、戦いの流れと人物のつながりを追えます。
1565年〜1566年
毛利元就
支城の切り崩しと兵糧攻めで月山富田城を完全に孤立化。約1年半の長期戦で尼子氏を降伏に追い込んだ。
吉川元春
攻城戦の前線を支え、武勇で毛利軍の士気を維持。兄・隆元亡き後の柱として活躍。
小早川隆景
水軍で海上補給路を遮断し、城の完全孤立に貢献。
山中鹿介
主家のため奮戦するも衆寡敵せず。「願わくば七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った伝説で名高い。
尼子義久は降伏後も生き、毛利家のもとで生涯を終えます。一方、山中鹿介ら旧臣は尼子勝久を擁して再興運動を続けました。
再興軍はのちに織田信長を頼り、上月城で毛利軍と戦うことになります。
毛利氏の中国地方支配がここで確定しました。同時に、堅城は「攻める」より「干す」という兵糧攻めの有効性が広く認識される契機にもなっています。
月山富田城の戦いは、1565年〜1566年に出雲国・月山富田城で行われた合戦です。毛利元就・吉川元春・小早川隆景・山中鹿介が戦い、結果は毛利軍の勝利(尼子氏滅亡)でした。
月山富田城の戦いは1565年〜1566年に出雲国・月山富田城(島根県安来市広瀬町(月山富田城跡))で起きました。
毛利軍の勝利(尼子氏滅亡)
毛利元就、吉川元春、小早川隆景、山中鹿介が参戦しています。