どのように勢力を広げた?
大内氏の力は貿易にありました。遣明船の派遣権を握り、明との公式貿易の利益を独占しています。博多を押さえたことも重要でした。
軍事的には北九州で大友・少弐と争い、山陰では尼子と対立しました。
大内氏は周防を本拠に、日明貿易を独占して莫大な富を築きました。最盛期には周防・長門・豊前・筑前など西国7か国に及びます。
山口には応仁の乱を逃れた公家や僧が下向し、「西の京」と呼ばれる文化の中心になりました。雪舟が滞在し、フランシスコ・ザビエルも布教を許されています。
1551年、大内義隆が家臣の陶晴賢に討たれ(大寧寺の変)、以後は急速に崩壊しました。1557年に大内義長が自害して滅びます。
周防国(山口館)
大内義隆
1528年〜1551年
月山富田城攻めの失敗後、文治に傾いた。陶晴賢に討たれた。
大内氏の力は貿易にありました。遣明船の派遣権を握り、明との公式貿易の利益を独占しています。博多を押さえたことも重要でした。
軍事的には北九州で大友・少弐と争い、山陰では尼子と対立しました。
義興・義隆の代、1520〜1540年代が最盛期です。西国7か国に及び、京都の政治にも影響力を持っていました。
1542年の月山富田城攻めの大敗で義隆は軍事への意欲を失い、文治に傾いたとされます。これが武断派の陶晴賢との対立を生みました。
1551年の大寧寺の変で義隆が自害。晴賢は大友から義長を迎えて傀儡としますが、1555年の厳島で毛利に敗れ、1557年に義長も自害しました。
大内氏の領国と文化的遺産は、毛利氏に引き継がれます。