大内氏とは?本拠・当主・勢力の広がり

大内氏を30秒で

大内氏は周防を本拠に、日明貿易を独占して莫大な富を築きました。最盛期には周防・長門・豊前・筑前など西国7か国に及びます。

山口には応仁の乱を逃れた公家や僧が下向し、「西の京」と呼ばれる文化の中心になりました。雪舟が滞在し、フランシスコ・ザビエルも布教を許されています。

1551年、大内義隆が家臣の陶晴賢に討たれ(大寧寺の変)、以後は急速に崩壊しました。1557年に大内義長が自害して滅びます。

本拠と領域

周防国(山口館)

歴代当主

  1. 大内政弘 〜1495年 応仁の乱で西軍の中核となり、京都で長く戦った。
  2. 大内義興 1495年〜1528年 足利義稙を奉じて上洛し、管領代として畿内を掌握した。
  3. 大内義隆のAI生成イメージ 大内義隆 1528年〜1551年 月山富田城攻めの失敗後、文治に傾いた。陶晴賢に討たれた。

どのように勢力を広げた?

大内氏の力は貿易にありました。遣明船の派遣権を握り、明との公式貿易の利益を独占しています。博多を押さえたことも重要でした。

軍事的には北九州で大友・少弐と争い、山陰では尼子と対立しました。

最盛期

義興・義隆の代、1520〜1540年代が最盛期です。西国7か国に及び、京都の政治にも影響力を持っていました。

主な合戦

他勢力との関係

尼子氏
石見銀山と安芸をめぐる対立。月山富田城攻めの失敗が義隆の転機になった。
毛利氏
当初は従属する国人。厳島の戦いで陶晴賢を破り、大内領を吸収した。
大友氏
北九州で争った。義隆の死後、大友宗麟の弟が大内義長として擁立された。
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衰退・その後

1542年の月山富田城攻めの大敗で義隆は軍事への意欲を失い、文治に傾いたとされます。これが武断派の陶晴賢との対立を生みました。

1551年の大寧寺の変で義隆が自害。晴賢は大友から義長を迎えて傀儡としますが、1555年の厳島で毛利に敗れ、1557年に義長も自害しました。

大内氏の領国と文化的遺産は、毛利氏に引き継がれます。

大内氏に属した武将(2人)

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