上月城の戦いとは?毛利輝元が山中鹿介を破った戦い

1578年|播磨国・上月城

30秒でわかる上月城の戦い

播磨の上月城に籠もった尼子勝久・山中鹿介の尼子再興軍が、毛利の大軍に包囲され、織田方の救援を得られないまま落城した戦いです。

羽柴秀吉は救援を主張しましたが、信長は三木城攻略を優先させ、上月城は見捨てられました。

尼子氏の再興運動はここで終わり、山中鹿介も護送中に殺害されます。

基本情報

戦名上月城の戦い
時期1578年
場所播磨国・上月城
現在の場所兵庫県佐用郡佐用町(上月城跡)
両軍毛利軍 vs 尼子再興軍
主な武将山中鹿介毛利輝元小早川隆景吉川元春豊臣秀吉黒田官兵衛
結果毛利軍の勝利、尼子氏滅亡

なぜ上月城の戦いは起きた?

月山富田城の落城で尼子氏は滅びましたが、山中鹿介らは尼子勝久を擁して再興を目指し、織田信長に接近しました。

1577年、信長の中国方面軍を率いる羽柴秀吉が播磨へ進出。上月城を落として尼子再興軍を入れ、毛利への最前線としました。

戦う直前の状況

1578年、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景が3万余で上月城を包囲します。同じ頃、播磨で別所長治が織田から離反して三木城に籠もりました。秀吉は二正面を抱えます。

両軍の顔ぶれ

毛利軍

兵力
約3万

尼子再興軍を潰すことを最優先とした。

尼子再興軍

兵力
約3千(諸説あり)

織田の援軍を頼みに籠城したが、援軍は来なかった。

兵力の数字は、軍記物に由来するものを含め史料によって大きく開きがあります。ここでは広く引かれている数値を挙げていますが、実数はこれより少なかったとする研究もあります。

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  • 1578年
  • 播磨国・上月城
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戦いの流れ

  1. 毛利軍の上月城包囲(4月) 毛利の主力が上月城を囲む。
  2. 秀吉の救援出陣 秀吉が高倉山に布陣するが、兵力差が大きく手が出せなかった。
  3. 別所長治の離反 播磨の別所氏が三木城で織田から離反し、秀吉は背後を脅かされる。
  4. 信長の判断 信長は播磨の平定を優先し、三木城の攻略と毛利軍の足止めへ方針を転換させた。上月城は事実上見捨てられる。
  5. 開城と落城(7月1日〜3日) 7月1日に城兵の助命を条件として開城。3日に尼子勝久らが自刃し、山中鹿介は捕らえられたのち備中国成羽で殺害された。

勝敗を分けたポイント

  • 戦線の優先順位信長は「毛利との決戦」より「播磨の足元を固めること」を選び、結果として上月城を切り捨てた。
  • 別所の離反背後で味方が寝返ったことで、秀吉は上月城の救援に戦力を割けなくなった。
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各武将の戦術

戦いの後どうなった?

秀吉は三木城攻めに集中し、2年に及ぶ兵糧攻めの末に別所長治を降します(三木の干殺し)。

毛利との戦線は膠着し、備中高松城の水攻めまで持ち越されました。

なぜこの戦いが重要なのか

「同盟者を見捨てる」判断が戦略的には正しかった例です。信長・秀吉が局地戦の面子より戦線全体の整理を優先したことが、その後の中国攻めの成功につながりました。

勝利側

敗北側

参戦武将

前後の出来事

関連する合戦

よくある質問

Q. 上月城の戦いとはどんな戦い?

上月城の戦いは、1578年に播磨国・上月城で行われた合戦です。山中鹿介・毛利輝元・小早川隆景・吉川元春らが戦い、結果は毛利軍の勝利、尼子氏滅亡でした。

Q. 上月城の戦いはいつ・どこで起きた?

上月城の戦いは1578年に播磨国・上月城(兵庫県佐用郡佐用町(上月城跡))で起きました。

Q. 上月城の戦いの結果は?

毛利軍の勝利、尼子氏滅亡

Q. 上月城の戦いの参戦武将は?

山中鹿介、毛利輝元、小早川隆景、吉川元春、豊臣秀吉、黒田官兵衛が参戦しています。

参考資料

  • 史料「信長公記」
  • 史料「陰徳太平記」

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