なぜ上月城の戦いは起きた?
月山富田城の落城で尼子氏は滅びましたが、山中鹿介らは尼子勝久を擁して再興を目指し、織田信長に接近しました。
1577年、信長の中国方面軍を率いる羽柴秀吉が播磨へ進出。上月城を落として尼子再興軍を入れ、毛利への最前線としました。
戦う直前の状況
1578年、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景が3万余で上月城を包囲します。同じ頃、播磨で別所長治が織田から離反して三木城に籠もりました。秀吉は二正面を抱えます。
1578年|播磨国・上月城
播磨の上月城に籠もった尼子勝久・山中鹿介の尼子再興軍が、毛利の大軍に包囲され、織田方の救援を得られないまま落城した戦いです。
羽柴秀吉は救援を主張しましたが、信長は三木城攻略を優先させ、上月城は見捨てられました。
尼子氏の再興運動はここで終わり、山中鹿介も護送中に殺害されます。
| 戦名 | 上月城の戦い |
|---|---|
| 時期 | 1578年 |
| 場所 | 播磨国・上月城 |
| 現在の場所 | 兵庫県佐用郡佐用町(上月城跡) |
| 両軍 | 毛利軍 vs 尼子再興軍 |
| 主な武将 | 山中鹿介、毛利輝元、小早川隆景、吉川元春、豊臣秀吉、黒田官兵衛 |
| 結果 | 毛利軍の勝利、尼子氏滅亡 |
月山富田城の落城で尼子氏は滅びましたが、山中鹿介らは尼子勝久を擁して再興を目指し、織田信長に接近しました。
1577年、信長の中国方面軍を率いる羽柴秀吉が播磨へ進出。上月城を落として尼子再興軍を入れ、毛利への最前線としました。
1578年、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景が3万余で上月城を包囲します。同じ頃、播磨で別所長治が織田から離反して三木城に籠もりました。秀吉は二正面を抱えます。
兵力の数字は、軍記物に由来するものを含め史料によって大きく開きがあります。ここでは広く引かれている数値を挙げていますが、実数はこれより少なかったとする研究もあります。
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誰がどこで動き、どの勢力がぶつかったのか。参戦武将をタップしながら、戦いの流れと人物のつながりを追えます。
1578年
山中鹿介
七難八苦を誓い、孤立無援の中、最後まで抵抗。
毛利輝元
大軍で包囲し、兵糧攻めと猛攻で落城させる。
小早川隆景
毛利水軍と連携し、織田の援軍を阻む。
吉川元春
毛利軍の先峰として包囲網を形成し、尼子再興軍の脱出を許さず。
豊臣秀吉
三木城攻めに注力するため、上月城を見捨てる決断を下す。
黒田官兵衛
上月城放棄を進言し、秀吉の決断を促す。
秀吉は三木城攻めに集中し、2年に及ぶ兵糧攻めの末に別所長治を降します(三木の干殺し)。
毛利との戦線は膠着し、備中高松城の水攻めまで持ち越されました。
「同盟者を見捨てる」判断が戦略的には正しかった例です。信長・秀吉が局地戦の面子より戦線全体の整理を優先したことが、その後の中国攻めの成功につながりました。

七難八苦

西国の総大将

智の隆景

鬼吉川

日輪の子

豊臣の知恵袋
1565年〜1566年
出雲国・月山富田城
1578年〜1580年
播磨国・三木城
1582年4月〜6月
備中国・高松城
1555年10月
安芸国・厳島
上月城の戦いは、1578年に播磨国・上月城で行われた合戦です。山中鹿介・毛利輝元・小早川隆景・吉川元春らが戦い、結果は毛利軍の勝利、尼子氏滅亡でした。
上月城の戦いは1578年に播磨国・上月城(兵庫県佐用郡佐用町(上月城跡))で起きました。
毛利軍の勝利、尼子氏滅亡
山中鹿介、毛利輝元、小早川隆景、吉川元春、豊臣秀吉、黒田官兵衛が参戦しています。