なぜ九州征伐は起きた?
耳川・沖田畷で大友・龍造寺を破った島津氏は、九州統一を目前にしていました。
秀吉は関白として惣無事令(大名間の私戦禁止)を発し、島津に停戦を命じます。島津がこれに従わなかったため、征伐が決まりました。
戦う直前の状況
戸次川で先遣隊が壊滅したことで、秀吉は自ら出陣します。動員兵力は20万余。当時の日本で可能な最大規模の動員でした。
1587年|九州全域
豊臣秀吉が20万を超える軍勢を二手に分けて九州へ進め、島津義久を降伏させた統一戦です。
弟の秀長が日向方面、秀吉自身が肥後方面から南下しました。根白坂の戦いで島津の反撃を退けると、以後は大きな抵抗なく薩摩まで進みます。
義久は剃髪して降伏し、島津氏は薩摩・大隅と日向の一部を安堵されました。
| 戦名 | 九州征伐 |
|---|---|
| 時期 | 1587年 |
| 場所 | 九州全域 |
| 現在の場所 | 九州各地(宮崎県木城町・根白坂/鹿児島県薩摩川内市・泰平寺など) |
| 両軍 | 豊臣軍 vs 島津軍 |
| 主な武将 | 豊臣秀吉、島津義弘、立花宗茂、大友宗麟、吉川元春、島津義久 ほか |
| 結果 | 豊臣軍の勝利 |
耳川・沖田畷で大友・龍造寺を破った島津氏は、九州統一を目前にしていました。
秀吉は関白として惣無事令(大名間の私戦禁止)を発し、島津に停戦を命じます。島津がこれに従わなかったため、征伐が決まりました。
戸次川で先遣隊が壊滅したことで、秀吉は自ら出陣します。動員兵力は20万余。当時の日本で可能な最大規模の動員でした。
兵力の数字は、軍記物に由来するものを含め史料によって大きく開きがあります。ここでは広く引かれている数値を挙げていますが、実数はこれより少なかったとする研究もあります。
アプリで体験 布陣と武将の動きを図解
誰がどこで動き、どの勢力がぶつかったのか。参戦武将をタップしながら、戦いの流れと人物のつながりを追えます。
1587年
豊臣秀吉
圧倒的な兵力で島津領に侵攻。
島津義弘
根白坂の戦いなどで抵抗するも降伏。
立花宗茂
岩屋城の陥落後、秀吉軍と合流し島津攻めに参加。
大友宗麟
島津氏に圧迫され秀吉に救援を要請し、大軍を呼び込む。
吉川元春
毛利軍の先峰として九州に渡るが、陣中で病死。
島津義久
島津四兄弟の総大将として抗戦するも、圧倒的な兵力差に降伏。
小早川秀包
毛利軍の一員として九州に渡り、島津攻めに参加。
鍋島直茂
豊臣軍の先導として九州を案内。島津攻めに貢献。
長宗我部信親
戸次川の戦いで仙石秀久の下で島津軍と交戦し、壮絶な討死を遂げる。
九州は大幅に再編されました。大友氏は豊後を安堵されますが、朝鮮出兵での失態により改易されます。
肥後を与えられた佐々成政は国人一揆を招いて切腹。その後、加藤清正・小西行長に分割されました。
博多でバテレン追放令が出され、キリスト教政策が転換します。
西日本の統一が完了し、残るは関東の北条と奥州のみとなりました。同時に、地方の有力大名が「本国安堵と引き換えに豊臣の秩序に入る」という形が定着します。

日輪の子

鬼石曼子

西国無双

豊後の王

鬼吉川

三州の総大将

毛利秀包

葉隠の祖

四国の若武者
九州征伐は、1587年に九州全域で行われた合戦です。豊臣秀吉・島津義弘・立花宗茂・大友宗麟らが戦い、結果は豊臣軍の勝利でした。
九州征伐は1587年に九州全域(九州各地(宮崎県木城町・根白坂/鹿児島県薩摩川内市・泰平寺など))で起きました。
豊臣軍の勝利
豊臣秀吉、島津義弘、立花宗茂、大友宗麟、吉川元春、島津義久、小早川秀包、鍋島直茂、長宗我部信親が参戦しています。