なぜ四国平定は起きた?
長宗我部元親は土佐から阿波・讃岐・伊予へ進み、1585年春までに四国をほぼ手中にしていました。
秀吉は元親に伊予・讃岐の返上を求めますが、元親は土佐・阿波の二国のみ譲る案を示して折り合いません。小牧・長久手で徳川方と通じていたことも、秀吉が討伐を決めた理由とされます。
戦う直前の状況
秀吉は自ら出陣する予定でしたが病により中止し、弟の羽柴秀長を総大将としました。軍は阿波・讃岐・伊予の三方から同時に上陸します。
1585年|四国全域
四国をほぼ統一していた長宗我部元親に対し、豊臣秀吉が10万を超える軍勢を三方から上陸させた征討戦です。
兵力差は圧倒的で、元親は約3か月で降伏。土佐一国のみを安堵されました。
秀吉の「圧倒的兵力で短期に決着させ、降伏した大名は残す」という統一の型が、ここではっきり現れます。
| 戦名 | 四国平定 |
|---|---|
| 時期 | 1585年 |
| 場所 | 四国全域 |
| 現在の場所 | 徳島県・香川県・愛媛県各地(一宮城跡・岩倉城跡など) |
| 両軍 | 豊臣軍 vs 長宗我部軍 |
| 主な武将 | 豊臣秀吉、長宗我部元親、小早川隆景、蜂須賀正勝、細川忠興、長宗我部信親 ほか |
| 結果 | 豊臣軍の勝利 |
長宗我部元親は土佐から阿波・讃岐・伊予へ進み、1585年春までに四国をほぼ手中にしていました。
秀吉は元親に伊予・讃岐の返上を求めますが、元親は土佐・阿波の二国のみ譲る案を示して折り合いません。小牧・長久手で徳川方と通じていたことも、秀吉が討伐を決めた理由とされます。
秀吉は自ら出陣する予定でしたが病により中止し、弟の羽柴秀長を総大将としました。軍は阿波・讃岐・伊予の三方から同時に上陸します。
兵力の数字は、軍記物に由来するものを含め史料によって大きく開きがあります。ここでは広く引かれている数値を挙げていますが、実数はこれより少なかったとする研究もあります。
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誰がどこで動き、どの勢力がぶつかったのか。参戦武将をタップしながら、戦いの流れと人物のつながりを追えます。
1585年
豊臣秀吉
四方から同時侵攻し、各個撃破。
長宗我部元親
善戦するも、多方面作戦に対応できず降伏。
小早川隆景
伊予方面から進攻し、長宗我部軍を圧迫。
蜂須賀正勝
調略を駆使し、長宗我部軍の切り崩しに貢献。
長宗我部信親
父・元親と共に四国防衛に従事。武勇を見せるも敗北。
仙石秀久
戦後、讃岐を拝領。ただし九州征伐での失態で改易される。
長宗我部氏は豊臣大名として存続し、九州征伐・朝鮮出兵に従軍します。戸次川の戦いで嫡男・信親を失ったことが、後の家中の混乱を招きました。
四国の旧領は蜂須賀家政(阿波)、仙石秀久(讃岐)、小早川隆景(伊予)らへ配分されます。
「圧倒的な兵力で速やかに降伏させ、降った大名は所領を減らして残す」という秀吉の全国統一の方式が確立した戦いです。翌年の九州征伐、1590年の小田原征伐も同じ型で進みます。

日輪の子

智の隆景

川並衆の顔役

文武両道の数奇者

戦国初の復活大名

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土佐の出来人

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四国の若武者

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四国平定は、1585年に四国全域で行われた合戦です。豊臣秀吉・長宗我部元親・小早川隆景・蜂須賀正勝らが戦い、結果は豊臣軍の勝利でした。
四国平定は1585年に四国全域(徳島県・香川県・愛媛県各地(一宮城跡・岩倉城跡など))で起きました。
豊臣軍の勝利
豊臣秀吉、長宗我部元親、小早川隆景、蜂須賀正勝、細川忠興、長宗我部信親、仙石秀久が参戦しています。