どのように勢力を広げた?
経久は謀略と国人衆の取り込みで勢力を広げました。月山富田城という堅城を本拠としたことも、長期にわたる支配を可能にしています。
石見銀山の支配は財政面で大きく、大内・毛利との争奪が繰り返されました。
尼子氏は出雲守護代の家柄から出て、経久の代に主家を追って国を掌握しました。
月山富田城を本拠に山陰・山陽へ勢力を広げ、最大で11か国に影響を及ぼしたとされます。石見銀山の争奪でも大内・毛利と争いました。
1566年、毛利元就の1年以上に及ぶ兵糧攻めで月山富田城が開城し、戦国大名としての尼子氏は滅びます。
出雲国(月山富田城)
尼子経久
〜1541年
守護代から国主へ。山陰・山陽に版図を広げた。
経久は謀略と国人衆の取り込みで勢力を広げました。月山富田城という堅城を本拠としたことも、長期にわたる支配を可能にしています。
石見銀山の支配は財政面で大きく、大内・毛利との争奪が繰り返されました。
経久晩年の1530年代が最盛期です。ただし支配は国人衆の連合に近く、当主の権威が揺らぐと結束が緩む構造でした。
晴久による新宮党(尼子国久ら一族の軍事集団)の粛清が、軍事力と家中の結束を弱めたとされます。
毛利元就は支城を先に落として月山富田城を孤立させ、1年以上の兵糧攻めで開城させました。
山中鹿介らが尼子勝久を擁して再興を図り、織田信長を頼って上月城に入りますが、1578年に毛利に敗れて運動は終わります。