なぜ厳島の戦いは起きた?
1551年、大内義隆が家臣の陶晴賢に討たれ(大寧寺の変)、大内氏の実権は晴賢が握りました。毛利元就は当初これに従いますが、安芸での主導権をめぐって対立します。
正面から戦えば兵力差は5倍。元就は野戦での決戦を避け、地形で兵力差を消す方法を探しました。
戦う直前の状況
厳島は瀬戸内の要衝ですが、平地が乏しく大軍が布陣できません。元就は島に宮尾城を築き、同時に「あの城は失敗だった」「重臣が寝返るらしい」といった噂を流して、陶軍に「今なら島ごと落とせる」と思わせました。
1555年10月|安芸国・厳島
陶晴賢の2万余に対し、毛利元就が約4千で挑み、厳島という狭い島に敵を誘い込んで壊滅させた戦いです。
元就は「宮尾城は弱い」という偽情報を流し、あえて島に城を築いて陶軍を渡海させました。大軍が展開できない地形で背後から急襲し、陶晴賢を自刃に追い込みます。
安芸の一国人にすぎなかった毛利氏が、中国地方の覇者へ駆け上がる出発点になりました。
| 戦名 | 厳島の戦い |
|---|---|
| 時期 | 1555年10月 |
| 場所 | 安芸国・厳島 |
| 現在の場所 | 広島県廿日市市宮島町(厳島神社周辺・宮尾城跡) |
| 両軍 | 毛利軍 vs 陶軍 |
| 主な武将 | 毛利元就、小早川隆景、吉川元春、陶晴賢、毛利隆元 |
| 結果 | 毛利軍の大勝 |
1551年、大内義隆が家臣の陶晴賢に討たれ(大寧寺の変)、大内氏の実権は晴賢が握りました。毛利元就は当初これに従いますが、安芸での主導権をめぐって対立します。
正面から戦えば兵力差は5倍。元就は野戦での決戦を避け、地形で兵力差を消す方法を探しました。
厳島は瀬戸内の要衝ですが、平地が乏しく大軍が布陣できません。元就は島に宮尾城を築き、同時に「あの城は失敗だった」「重臣が寝返るらしい」といった噂を流して、陶軍に「今なら島ごと落とせる」と思わせました。
兵力の数字は、軍記物に由来するものを含め史料によって大きく開きがあります。ここでは広く引かれている数値を挙げていますが、実数はこれより少なかったとする研究もあります。
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誰がどこで動き、どの勢力がぶつかったのか。参戦武将をタップしながら、戦いの流れと人物のつながりを追えます。
1555年10月
毛利元就
偽の内通で敵を厳島に誘い込み、水軍で退路を断つ。
小早川隆景
父の指示のもと水軍を率いて海上封鎖。
吉川元春
島内での戦闘で先峰を務め、陶軍を山側から圧迫。
陶晴賢
まんまと宮島に誘い出され、狭い地形に大軍を密集させ身動き取れず。
毛利隆元
父の指示のもと兵糧・補給を統括し、毛利軍の後方を支える。
大内氏は実質的な支柱を失い、1557年に大内義長が自刃して滅亡します。毛利氏は防長二国を手に入れました。
続いて出雲の尼子氏へ矛先を向け、月山富田城を落として中国地方の大半を支配下に置きます。
兵力差5倍を地形と情報で覆した例として語られますが、それ以上に重要なのは、この一戦で西国の勢力図が大内・尼子の二極から毛利中心へ組み替わったことです。
桶狭間・河越とあわせてそう呼ばれることがありますが、これは後世の分類で、当時の呼称ではありません。
厳島の戦いは、1555年10月に安芸国・厳島で行われた合戦です。毛利元就・小早川隆景・吉川元春・陶晴賢らが戦い、結果は毛利軍の大勝でした。
厳島の戦いは1555年10月に安芸国・厳島(広島県廿日市市宮島町(厳島神社周辺・宮尾城跡))で起きました。
毛利軍の大勝
毛利元就、小早川隆景、吉川元春、陶晴賢、毛利隆元が参戦しています。