豊臣秀長の生涯
尾張国中村の生まれ。秀吉の弟だが、異父弟とする説と同父同母とする説があり定まらない。当初は農民として暮らしていたが、織田家で出世していく兄に呼ばれて武士となった。
初名は木下小一郎長秀。兄の中国攻めに従い、三木合戦や備中高松城の水攻めで実務を担った。1582年の本能寺の変後は山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦いと、兄の天下取りの主要な戦いをほぼすべて共に戦っている。
1585年の四国平定では、病の兄に代わって総大将を務め、長宗我部元親を降伏させた。1587年の九州征伐では日向方面軍を率い、根白坂の戦いで島津軍を撃退。この勝利が島津降伏の決め手となった。
戦功により大和・和泉・紀伊にまたがる100万石余を与えられ、大和郡山城主・従二位権大納言となる。「大和大納言」と呼ばれ、豊臣政権の実質的なナンバー2として、諸大名と兄の間、そして武断派と文治派の間を取り持った。
1591年1月22日、大和郡山城で病没。享年52。その直後から千利休の切腹、秀次事件、朝鮮出兵と豊臣政権は急速に統制を失っていく。

豊臣秀長




