有子山城

秀長による攻略 1580年

城名有子山城(ありこやまじょう)
所在地兵庫県豊岡市出石町(但馬国)
築城1574年(天正2年)、山名祐豊が築城
主な城主山名氏 → 豊臣秀長(但馬平定後)
現状国指定史跡。石垣を主体とした山城遺構が残る。麓には江戸期の出石城跡(復元櫓・登城門)がある

有子山城とは

有子山城は、但馬国の戦国大名・山名祐豊が1574年(天正2年)に築いた山城である。それまでの居城であった此隅山城が織田方の攻撃で落城したのを受けて、新たな拠点として山名氏が築いた。

1580年(天正8年)、織田信長の命により但馬平定を進める羽柴秀長(後の豊臣秀長、秀吉の異父弟)の攻撃を受けて有子山城は落城し、山名氏は滅亡した。以後、有子山城は秀長による但馬支配の拠点となり、家臣の藤堂高虎らの手により石垣を用いた近世城郭へと改修されたと伝わる。秀長は1585年に大和郡山城主となって但馬を離れ、その後は木下昌利・青木秀以・前野長康・小出吉政ら秀吉配下の武将が城主を務めた。1604年(慶長9年)、小出吉英が山麓に出石城を築いたことで、山上の有子山城は廃城となった。現在「出石城」として知られる遺構は麓に築かれた江戸時代の城であり、秀長が拠点とした戦国期の山城・有子山城とは異なる城である点に注意が必要である。

1569年 山名氏の旧居城・此隅山城が落城
1574年(天正2年) 山名祐豊が有子山城を築城
1580年(天正8年) 羽柴秀長(後の豊臣秀長)が但馬平定のため有子山城を攻略。山名氏が滅亡
1580年代 豊臣秀長による但馬支配の拠点となり、石垣造りの城へ改修されたと伝わる
1585年 秀長が大和郡山城主となり、以後は秀長配下の武将が有子山城主を務める
1604年(慶長9年) 小出吉英が山麓に出石城を築き、有子山城は廃城となる
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ゆかりの武将

有子山城を拠点とした人物

麓に江戸時代築かれた出石城とは別の、戦国期の山城です。豊臣秀長が但馬平定直後に拠点とした城にあたります。

秀長の居城を辿る

有子山城 大和郡山城

よくある質問

Q. 有子山城とは?

但馬国の戦国大名・山名祐豊が1574年に築いた山城です。1580年に豊臣秀長に攻略され、以後は秀長による但馬支配の拠点となりました。

Q. 有子山城と出石城は同じ城ですか?

異なります。有子山城は戦国期に山名氏・豊臣秀長が拠点とした山上の城で、出石城は1604年に小出吉英が山麓に新たに築いた江戸期の城です。豊臣秀長が活躍した当時の城は有子山城にあたります。

Q. 豊臣秀長はなぜ有子山城を攻めたのですか?

織田信長の命による但馬平定の一環で、1580年に但馬に侵攻し、山名氏の居城であった有子山城を攻略しました。

Q. 有子山城の現状はどうなっていますか?

国指定史跡として、石垣を中心とした山城の遺構が良好に残っています。麓には江戸期の出石城跡があり、復元された隅櫓や登城門を見ることができます。

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