なぜ小牧・長久手の戦いは起きた?
賤ヶ岳の後、秀吉は織田家の実権を握りました。これに反発した信長の次男・織田信雄が、徳川家康に支援を求めます。
家康にとっては、天正壬午の乱で得た五か国の立場を守るために秀吉の伸長を止める必要がありました。
戦う直前の状況
家康は小牧山に本陣を置き、土塁と砦を築いて陣地を固めます。秀吉は楽田に布陣。互いに堅陣を構えたまま、数か月にわたって動きませんでした。
1584年|尾張国・小牧山〜長久手
羽柴秀吉と、織田信雄・徳川家康の連合軍が尾張で対峙した長期戦です。
局地戦では家康が勝ちました。長久手で池田恒興・森長可を討ち取り、秀吉は野戦での決着を諦めます。
ところが秀吉は信雄と単独講和を結び、家康は戦う名分を失って撤兵。「戦術で勝ち、戦略で負けた」典型例とされます。
| 戦名 | 小牧・長久手の戦い |
|---|---|
| 時期 | 1584年 |
| 場所 | 尾張国・小牧山〜長久手 |
| 現在の場所 | 愛知県小牧市・長久手市(小牧山城跡/長久手古戦場公園) |
| 両軍 | 羽柴軍 vs 織田・徳川連合軍 |
| 主な武将 | 徳川家康、豊臣秀吉、本多忠勝、井伊直政、榊原康政、森長可 ほか |
| 結果 | 軍事的には家康の勝利、政治的には秀吉の勝利 |
賤ヶ岳の後、秀吉は織田家の実権を握りました。これに反発した信長の次男・織田信雄が、徳川家康に支援を求めます。
家康にとっては、天正壬午の乱で得た五か国の立場を守るために秀吉の伸長を止める必要がありました。
家康は小牧山に本陣を置き、土塁と砦を築いて陣地を固めます。秀吉は楽田に布陣。互いに堅陣を構えたまま、数か月にわたって動きませんでした。
兵力の数字は、軍記物に由来するものを含め史料によって大きく開きがあります。ここでは広く引かれている数値を挙げていますが、実数はこれより少なかったとする研究もあります。
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誰がどこで動き、どの勢力がぶつかったのか。参戦武将をタップしながら、戦いの流れと人物のつながりを追えます。
1584年
徳川家康
小牧山に布陣し、秀吉軍の別動隊を長久手で撃破。
豊臣秀吉
大軍で圧迫するも、家康の堅守を崩せず。
本多忠勝
わずか500騎で秀吉の大軍を牽制し、秀吉をして「東国一の勇将」と言わしめた。
井伊直政
徳川軍の先鋒として長久手の局地戦で武功を挙げる。
榊原康政
秀吉軍の背後を突く別働隊を率い、大勝に貢献。秀吉を「天下の簒奪者」と檄文で批判。
森長可
羽柴方の別動隊として奇襲を試みるが、家康軍に捕捉され狙撃により戦死。
池田輝政
父・池田恒興と共に別動隊として参加。父は戦死するも輝政は生還。
池田恒興
秀吉方の別動隊を率いて三河奇襲を試みるも、家康に捕捉され長久手で討死。
結城秀康
家康の次男として参陣。この戦いの後、和議の条件として秀吉の養子に出される。
家康は表面上は敗れていませんが、秀吉に臣従する流れが避けられなくなります。1586年、家康は上洛して秀吉に臣従しました。
秀吉は同年に太政大臣・豊臣姓を得て、政権の正統性を確立します。
池田恒興・森長可という有力武将を失ったことは、秀吉政権にとって小さくない損失でした。
戦場の勝敗と政治の勝敗が別物であることを示した戦いです。家康はここで秀吉と正面から戦える実力を示し、それが後年、秀吉の死後に彼が主導権を握る前提になりました。

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制外の家
小牧・長久手の戦いは、1584年に尾張国・小牧山〜長久手で行われた合戦です。徳川家康・豊臣秀吉・本多忠勝・井伊直政らが戦い、結果は軍事的には家康の勝利、政治的には秀吉の勝利でした。
小牧・長久手の戦いは1584年に尾張国・小牧山〜長久手(愛知県小牧市・長久手市(小牧山城跡/長久手古戦場公園))で起きました。
軍事的には家康の勝利、政治的には秀吉の勝利
徳川家康、豊臣秀吉、本多忠勝、井伊直政、榊原康政、森長可、池田輝政、池田恒興、結城秀康が参戦しています。