なぜ三木合戦は起きた?
1577年、羽柴秀吉が中国方面軍として播磨へ進出し、播磨の国人は当初織田に従いました。別所長治もその一人です。
ところが1578年2月、長治が離反します。理由は諸説あり、秀吉の出自への反発、毛利方への期待、織田の播磨支配への不満などが挙げられます。
戦う直前の状況
三木城は台地上にあり、力攻めでは大きな損害が出る城でした。秀吉は上月城を見捨ててまで三木攻めに戦力を集中させます。竹中半兵衛は陣中で病没し、黒田官兵衛は有岡城に幽閉されていた時期にあたります。
1578年〜1580年|播磨国・三木城
播磨の別所長治が籠もる三木城を、羽柴秀吉が約2年かけて兵糧攻めで落とした戦いです。「三木の干殺し」と呼ばれます。
秀吉は城を直接攻めず、周囲に付城と土塁の線を築いて補給路を完全に断ちました。城内は極度の飢餓に陥ります。
長治は城兵の助命を条件に一族で自害し、開城しました。この方式は鳥取城・備中高松城でも繰り返されます。
| 戦名 | 三木合戦 |
|---|---|
| 時期 | 1578年〜1580年 |
| 場所 | 播磨国・三木城 |
| 現在の場所 | 兵庫県三木市上の丸町(三木城跡) |
| 両軍 | 織田(羽柴)軍 vs 別所軍 |
| 主な武将 | 豊臣秀吉、黒田官兵衛、竹中半兵衛 |
| 結果 | 織田(羽柴)軍の勝利 |
1577年、羽柴秀吉が中国方面軍として播磨へ進出し、播磨の国人は当初織田に従いました。別所長治もその一人です。
ところが1578年2月、長治が離反します。理由は諸説あり、秀吉の出自への反発、毛利方への期待、織田の播磨支配への不満などが挙げられます。
三木城は台地上にあり、力攻めでは大きな損害が出る城でした。秀吉は上月城を見捨ててまで三木攻めに戦力を集中させます。竹中半兵衛は陣中で病没し、黒田官兵衛は有岡城に幽閉されていた時期にあたります。
毛利の兵糧搬入に望みをかけたが、補給路を次々に断たれた。
兵力の数字は、軍記物に由来するものを含め史料によって大きく開きがあります。ここでは広く引かれている数値を挙げていますが、実数はこれより少なかったとする研究もあります。
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誰がどこで動き、どの勢力がぶつかったのか。参戦武将をタップしながら、戦いの流れと人物のつながりを追えます。
1578年〜1580年
豊臣秀吉
「三木の干殺し」と呼ばれる徹底的な兵糧攻めで城を屈服させた。武力に頼らぬ知略の勝利。
黒田官兵衛
兵糧攻めの補給路遮断を立案。途中で荒木村重に幽閉されるも、作戦は継続された。
竹中半兵衛
兵糧攻めの基本戦略を立案するも、陣中で病に倒れ1579年に36歳で病没。
播磨は織田の支配下に入り、秀吉は姫路城を本拠として中国攻めを進めます。
同じ兵糧攻めの方式が、翌1581年の鳥取城(鳥取の渇え殺し)、1582年の備中高松城(水攻め)で繰り返されました。
秀吉の戦い方の型がここで確立しました。人的損害を抑え、土木工事と兵站遮断で勝つ——のちの小田原征伐まで一貫するやり方です。
三木合戦は、1578年〜1580年に播磨国・三木城で行われた合戦です。豊臣秀吉・黒田官兵衛・竹中半兵衛が戦い、結果は織田(羽柴)軍の勝利でした。
三木合戦は1578年〜1580年に播磨国・三木城(兵庫県三木市上の丸町(三木城跡))で起きました。
織田(羽柴)軍の勝利
豊臣秀吉、黒田官兵衛、竹中半兵衛が参戦しています。