なぜ賤ヶ岳の戦いは起きた?
清洲会議で秀吉が主導権を握ったことに、筆頭家老の柴田勝家は納得していませんでした。勝家は織田信孝・滝川一益と結び、秀吉に対抗します。
越前を本拠とする勝家は雪に閉ざされる冬の間動けず、その間に秀吉は近江・美濃で地歩を固めました。
戦う直前の状況
1583年3月、雪解けとともに勝家が近江へ出兵。両軍は余呉湖周辺に多数の砦を築いて対峙します。1か月以上、決戦は起きませんでした。
1583年4月|近江国・賤ヶ岳
織田家の後継をめぐって対立した羽柴秀吉と柴田勝家が、近江の賤ヶ岳で決戦した戦いです。
秀吉は美濃の織田信孝を攻めるふりをして戦線を離れ、勝家方の佐久間盛政が前に出た隙を突いて約52キロを5時間で引き返しました(美濃大返し)。
勝家は北ノ庄城で自害し、秀吉が織田家中の実権を完全に掌握します。
| 戦名 | 賤ヶ岳の戦い |
|---|---|
| 時期 | 1583年4月 |
| 場所 | 近江国・賤ヶ岳 |
| 現在の場所 | 滋賀県長浜市木之本町(賤ヶ岳・余呉湖周辺) |
| 両軍 | 羽柴軍 vs 柴田軍 |
| 主な武将 | 豊臣秀吉、柴田勝家、前田利家、加藤清正、福島正則、柴田勝豊 ほか |
| 結果 | 羽柴軍の勝利 |
清洲会議で秀吉が主導権を握ったことに、筆頭家老の柴田勝家は納得していませんでした。勝家は織田信孝・滝川一益と結び、秀吉に対抗します。
越前を本拠とする勝家は雪に閉ざされる冬の間動けず、その間に秀吉は近江・美濃で地歩を固めました。
1583年3月、雪解けとともに勝家が近江へ出兵。両軍は余呉湖周辺に多数の砦を築いて対峙します。1か月以上、決戦は起きませんでした。
兵力の数字は、軍記物に由来するものを含め史料によって大きく開きがあります。ここでは広く引かれている数値を挙げていますが、実数はこれより少なかったとする研究もあります。
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誰がどこで動き、どの勢力がぶつかったのか。参戦武将をタップしながら、戦いの流れと人物のつながりを追えます。
1583年4月
豊臣秀吉
美濃大返しで勝家軍の虚を突く。
柴田勝家
前田利家の戦線離脱により崩壊。
前田利家
戦線を離脱し、実質的に秀吉に協力。
加藤清正
「賤ヶ岳の七本槍」の一人として武功を挙げる。
福島正則
「賤ヶ岳の七本槍」の筆頭として一番槍の功名を立てる。
柴田勝豊
長浜城を攻められ、早期に秀吉に降伏し味方となる。
加藤嘉明
「賤ヶ岳の七本槍」の一人として武功を挙げる。
脇坂安治
「賤ヶ岳の七本槍」の一人として武功を挙げる。
丹羽長秀
秀吉の味方として参戦。安土城普請奉行としての行政能力で秀吉を支える。
前田利長
父・利家と共に秀吉方として参戦。
片桐且元
「賤ヶ岳の七本槍」の一人として武功を挙げる。後に豊臣家の行政官として活躍。
平野長泰
「賤ヶ岳の七本槍」の一人として武功を挙げる。
糟屋武則
「賤ヶ岳の七本槍」の一人として武功を挙げる。
柴田勝家の滅亡で、織田家中に秀吉と並ぶ者はいなくなりました。滝川一益は降伏、織田信孝は自害します。
前田利家は秀吉に従い、加賀・能登を与えられて加賀百万石の基礎を築きました。
残った対抗勢力は織田信雄と徳川家康で、翌1584年の小牧・長久手へつながります。
秀吉が「織田家の重臣の一人」から「織田家を継ぐ者」へ移った戦いです。以後、秀吉は織田家の家督を名目にせず、自らの政権を築いていきます。
加藤清正・福島正則ら7人が有名ですが、同時に恩賞を受けた者は9人いたとする史料もあり、「七本槍」という括りは後年に整えられたものです。

日輪の子

鬼将軍

槍の又左

賤ヶ岳の筆頭


賤ヶ岳七本槍

賤ヶ岳七本槍

米五郎左

祥雲院

東市正

遠江守

内膳正

日輪の子

鬼柴田

槍の又左

鬼将軍

賤ヶ岳の筆頭


賤ヶ岳七本槍

賤ヶ岳七本槍

米五郎左

祥雲院

東市正

遠江守

内膳正
賤ヶ岳の戦いは、1583年4月に近江国・賤ヶ岳で行われた合戦です。豊臣秀吉・柴田勝家・前田利家・加藤清正らが戦い、結果は羽柴軍の勝利でした。
賤ヶ岳の戦いは1583年4月に近江国・賤ヶ岳(滋賀県長浜市木之本町(賤ヶ岳・余呉湖周辺))で起きました。
羽柴軍の勝利
豊臣秀吉、柴田勝家、前田利家、加藤清正、福島正則、柴田勝豊、加藤嘉明、脇坂安治、丹羽長秀、前田利長、片桐且元、平野長泰、糟屋武則が参戦しています。