上杉氏とは?本拠・当主・勢力の広がり

上杉氏を30秒で

越後守護代の長尾家に生まれた景虎(のちの上杉謙信)は、19歳で家督を継いで内乱の続く越後をまとめました。

北条に追われた関東管領・上杉憲政を保護し、その名跡と職を継いで「上杉政虎」を名乗ります。以後、関東出兵の名分を得て毎年のように三国峠を越えました。

武田信玄とは川中島で5度、織田軍とは手取川で戦っています。1578年に急死したのち家督争い(御館の乱)を経て景勝が継ぎ、豊臣政権下で会津120万石、関ヶ原後に米沢30万石となりました。

本拠と領域

越後国(春日山城)→陸奥国(会津若松城)→出羽国(米沢城)

歴代当主

  1. 長尾為景 〜1536年 謙信の父。越後守護・上杉氏を倒して実権を握った。1536年に隠居し、没年には諸説がある。
  2. 長尾晴景 1536年〜1548年 為景の跡を継いだ謙信の兄。国内をまとめきれず、家督を弟の景虎へ譲った。
  3. 上杉謙信(長尾景虎)のAI生成イメージ 上杉謙信(長尾景虎) 1548年〜1578年 関東管領を継承。生涯に十数回の遠征を行った。
  4. 上杉景勝のAI生成イメージ 上杉景勝 1578年〜1623年 御館の乱に勝って家督を継ぐ。五大老の一人。関ヶ原後に米沢へ移された。

どのように勢力を広げた?

謙信の出兵は領地拡大より「名分」を軸にしていました。関東管領として北条を討つ、頼ってきた者を助ける、幕府の要請に応じる——という形で兵を出しています。

越後は青苧(あおそ)の交易と日本海の海運で潤っており、この経済力が繰り返しの遠征を支えました。

結果として、関東では占領地を維持できず、川中島でも国境はほとんど動きませんでした。実際に版図が広がったのは越中・能登方面です。

最盛期

1577年の手取川の戦いで織田軍を破り、加賀まで制圧した時点が最大版図です。翌年に謙信が急死しました。

主な合戦

他勢力との関係

武田氏
川中島で12年争った宿敵。決着はつかなかった。
北条氏
関東管領として一貫して敵対。小田原城を包囲したが落とせなかった。
織田氏
当初は友好。将軍義昭の要請と本願寺との関係から敵対し、手取川で戦った。
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衰退・その後

1578年の謙信急死後、養子の景勝と景虎による家督争い(御館の乱)で家中が二分され、多くの将兵を失いました。この間に織田の北陸方面軍が加賀・能登を奪います。

豊臣政権下で景勝は五大老に列し会津120万石を得ますが、家康の会津征伐が関ヶ原の直接の引き金になりました。戦後、米沢30万石へ減封されます。

直江兼続は減封後も家臣を召し放たず、米沢での新田開発と殖産に取り組みました。

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