どのように勢力を広げた?
謙信の出兵は領地拡大より「名分」を軸にしていました。関東管領として北条を討つ、頼ってきた者を助ける、幕府の要請に応じる——という形で兵を出しています。
越後は青苧(あおそ)の交易と日本海の海運で潤っており、この経済力が繰り返しの遠征を支えました。
結果として、関東では占領地を維持できず、川中島でも国境はほとんど動きませんでした。実際に版図が広がったのは越中・能登方面です。
越後守護代の長尾家に生まれた景虎(のちの上杉謙信)は、19歳で家督を継いで内乱の続く越後をまとめました。
北条に追われた関東管領・上杉憲政を保護し、その名跡と職を継いで「上杉政虎」を名乗ります。以後、関東出兵の名分を得て毎年のように三国峠を越えました。
武田信玄とは川中島で5度、織田軍とは手取川で戦っています。1578年に急死したのち家督争い(御館の乱)を経て景勝が継ぎ、豊臣政権下で会津120万石、関ヶ原後に米沢30万石となりました。
越後国(春日山城)→陸奥国(会津若松城)→出羽国(米沢城)
上杉謙信(長尾景虎)
1548年〜1578年
関東管領を継承。生涯に十数回の遠征を行った。
上杉景勝
1578年〜1623年
御館の乱に勝って家督を継ぐ。五大老の一人。関ヶ原後に米沢へ移された。
謙信の出兵は領地拡大より「名分」を軸にしていました。関東管領として北条を討つ、頼ってきた者を助ける、幕府の要請に応じる——という形で兵を出しています。
越後は青苧(あおそ)の交易と日本海の海運で潤っており、この経済力が繰り返しの遠征を支えました。
結果として、関東では占領地を維持できず、川中島でも国境はほとんど動きませんでした。実際に版図が広がったのは越中・能登方面です。
1577年の手取川の戦いで織田軍を破り、加賀まで制圧した時点が最大版図です。翌年に謙信が急死しました。
1553年〜1564年
信濃国・川中島
1561年3月
相模国・小田原城
1577年9月
加賀国・手取川
1582年6月〜10月
甲斐国・信濃国
1600年9月15日
美濃国・関ヶ原
1578年の謙信急死後、養子の景勝と景虎による家督争い(御館の乱)で家中が二分され、多くの将兵を失いました。この間に織田の北陸方面軍が加賀・能登を奪います。
豊臣政権下で景勝は五大老に列し会津120万石を得ますが、家康の会津征伐が関ヶ原の直接の引き金になりました。戦後、米沢30万石へ減封されます。
直江兼続は減封後も家臣を召し放たず、米沢での新田開発と殖産に取り組みました。