なぜ小田原城の戦い(上杉謙信)は起きた?
河越城の戦いで没落した関東管領・上杉憲政は越後へ逃れ、長尾景虎に関東管領職と上杉の名跡を譲りました。景虎は上杉政虎(のちの謙信)と名乗ります。
関東管領として北条を討つ——これが謙信の出兵の名分でした。北条の支配に不満を持つ関東の国人が次々に参陣し、大軍が編成されます。
戦う直前の状況
北条氏康は野戦を避け、支城の兵も小田原に集めて籠城を選びました。小田原城は相模湾と山に囲まれ、後方から兵糧を入れられる構造になっています。
1561年3月|相模国・小田原城
関東管領を継いだ上杉謙信が10万余(諸説あり)の関東諸将を率いて小田原城を包囲しましたが、北条氏康は籠城に徹して耐え抜きました。
謙信は約1か月で包囲を解き、鎌倉の鶴岡八幡宮で関東管領就任の儀式を行って越後へ帰ります。城は落ちませんでした。
「関東の大軍でも小田原城は落ちない」ことが証明され、以後の北条氏の戦略の柱になります。
| 戦名 | 小田原城の戦い(上杉謙信) |
|---|---|
| 時期 | 1561年3月 |
| 場所 | 相模国・小田原城 |
| 現在の場所 | 神奈川県小田原市(小田原城址公園一帯) |
| 両軍 | 上杉軍(関東連合) vs 北条軍 |
| 主な武将 | 上杉謙信、北条氏康 |
| 結果 | 北条氏の防衛成功(上杉軍撤退) |
河越城の戦いで没落した関東管領・上杉憲政は越後へ逃れ、長尾景虎に関東管領職と上杉の名跡を譲りました。景虎は上杉政虎(のちの謙信)と名乗ります。
関東管領として北条を討つ——これが謙信の出兵の名分でした。北条の支配に不満を持つ関東の国人が次々に参陣し、大軍が編成されます。
北条氏康は野戦を避け、支城の兵も小田原に集めて籠城を選びました。小田原城は相模湾と山に囲まれ、後方から兵糧を入れられる構造になっています。
関東諸将の寄せ集めで、長期の在陣が難しかった。
兵力の数字は、軍記物に由来するものを含め史料によって大きく開きがあります。ここでは広く引かれている数値を挙げていますが、実数はこれより少なかったとする研究もあります。
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誰がどこで動き、どの勢力がぶつかったのか。参戦武将をタップしながら、戦いの流れと人物のつながりを追えます。
1561年3月
謙信は帰路に川中島へ向かい、同年秋に武田信玄と第四次川中島の戦いを戦います。
北条は離反した関東諸将を順次従わせ、支配を回復しました。以後、謙信は毎年のように関東へ出兵しますが、決定的な成果は得られません。
小田原城の防御力が広く知られる契機になりました。この城が最終的に落ちるのは29年後、豊臣秀吉が20万を動員し、兵糧攻めと外交で関東の諸勢力を切り離した小田原征伐まで待つことになります。
小田原城の戦い(上杉謙信)は、1561年3月に相模国・小田原城で行われた合戦です。上杉謙信・北条氏康が戦い、結果は北条氏の防衛成功(上杉軍撤退)でした。
小田原城の戦い(上杉謙信)は1561年3月に相模国・小田原城(神奈川県小田原市(小田原城址公園一帯))で起きました。
北条氏の防衛成功(上杉軍撤退)
上杉謙信、北条氏康が参戦しています。