30秒でわかる関ヶ原の戦い
徳川家康率いる東軍と、石田三成を中心とする西軍が美濃・関ヶ原で激突した「天下分け目」の決戦です。
兵力はほぼ互角でしたが、小早川秀秋の寝返りをはじめとする内応が相次ぎ、開戦から半日で決着しました。
家康はこの勝利で全国の大名を再配置し、3年後に江戸幕府を開きます。260年続く近世の始まりです。
なぜ関ヶ原の戦いは起きた?
1598年に豊臣秀吉が死去し、幼い秀頼を五大老・五奉行が支える体制になりました。しかし朝鮮出兵で生まれた武断派と文治派の対立は解けていません。
徳川家康は無断の縁組や所領の私的な約束を重ね、五奉行の石田三成と対立します。1600年、家康が会津の上杉景勝討伐に向かった隙に、三成が挙兵しました。
戦う直前の状況
家康は下野小山で反転し、西上します。東海道の諸城が次々と東軍に降り、9月15日、両軍は関ヶ原に集結しました。西軍は毛利輝元を総大将に据えていましたが、輝元は大坂城にとどまっています。
兵力の数字は、軍記物に由来するものを含め史料によって大きく開きがあります。ここでは広く引かれている数値を挙げていますが、実数はこれより少なかったとする研究もあります。
戦いの後どうなった?
西軍の大名は改易・減封され、東軍側へ再配分されました。毛利は120万石から37万石へ、上杉は120万石から30万石へ削られます。
石田三成・小西行長・安国寺恵瓊は京都で処刑されました。
家康は1603年に征夷大将軍となり江戸幕府を開きます。ただし豊臣秀頼は大坂に残り、決着は1614〜15年の大坂の陣まで持ち越されました。
なぜこの戦いが重要なのか
一日の戦闘で全国の大名の序列が引き直され、以後260年の秩序が決まりました。戦闘そのものより、そこへ至るまでの調略と大名の去就の読み合いが本質だった戦いです。