どのように勢力を広げた?
信玄の拡大はまず信濃でした。諏訪・小笠原・村上を順に破り、20年近くかけて信濃をほぼ制圧します。追われた国人が越後の上杉謙信を頼ったことで川中島の戦いが始まりました。
1568年に今川領へ侵攻して駿河を併合し、内陸国だった武田は海への出口を得ます。同時に甲相駿三国同盟は崩れ、北条とも一時敵対しました。
内政では信玄堤による治水、黒川金山などの鉱山開発、伝馬制度による街道整備を進めています。石高の限られた甲斐から大軍を出し続けられたのは、この基盤があったためです。
武田氏は甲斐守護の家柄がそのまま戦国大名になった例です。信虎が甲斐を統一し、子の晴信(信玄)が父を追放して家督を継ぎました。
海のない甲斐から外へ出るため、信玄は信濃を制圧し、上杉謙信と川中島で12年争い、駿河を併合しました。治水・金山開発・分国法『甲州法度之次第』など内政の整備でも知られます。
1572年に西上作戦を開始し三方ヶ原で徳川家康を破りますが、翌年に病没。跡を継いだ勝頼は長篠で宿将を大量に失い、1582年に滅びました。
甲斐国(躑躅ヶ崎館・要害山城)→新府城
武田信玄(晴信)
1541年〜1573年
信濃・駿河・西上野へ拡大。西上作戦の途上で病没した。
武田勝頼
1573年〜1582年
長篠で敗れて以後は守勢。天目山で自害し、武田家は滅んだ。
信玄の拡大はまず信濃でした。諏訪・小笠原・村上を順に破り、20年近くかけて信濃をほぼ制圧します。追われた国人が越後の上杉謙信を頼ったことで川中島の戦いが始まりました。
1568年に今川領へ侵攻して駿河を併合し、内陸国だった武田は海への出口を得ます。同時に甲相駿三国同盟は崩れ、北条とも一時敵対しました。
内政では信玄堤による治水、黒川金山などの鉱山開発、伝馬制度による街道整備を進めています。石高の限られた甲斐から大軍を出し続けられたのは、この基盤があったためです。
1572年の西上作戦開始時が最大版図です。甲斐・信濃・駿河・西上野・遠江北部・美濃東部に及び、三方ヶ原で徳川家康を破った直後が頂点でした。
1553年〜1564年
信濃国・川中島
1569年10月
相模国・三増峠
元亀3年12月(1573年1月)
遠江国・三方ヶ原
1575年5月
三河国・長篠
長篠の戦いで山県昌景・馬場信春・内藤昌豊ら信玄以来の宿将を一日で失ったことが致命傷でした。兵の損害以上に、指揮できる人材の層が薄くなります。
勝頼は新府城の築城など再建を図りますが、負担が家臣・領民の離反を招きました。1582年の織田・徳川の侵攻では木曾義昌・穴山梅雪ら一門が次々に離反し、勝頼は天目山で自害します。
武田の遺臣は徳川家康に多く登用され、井伊直政の「赤備え」など徳川軍の中核となりました。

甲斐の虎

道鬼

信玄の後継者

不死身の鬼美濃

三郎兵衛尉

攻め弾正

逃げ弾正

典厩

修理亮

伯耆守

甲斐の忠臣

武田の両翼

甲山の猛虎

鬼美濃

郡内の支配者

穴山梅雪

槍の横田

長篠の忠臣

鬼虎

信玄の奉行

武田の知将

長篠の盾

赤備えの継承者

武田の古強者

武田の忠臣