稀少

島津豊久

妖怪首置いてけ

島津 武将

島津豊久のAI生成イメージ
AI生成イメージ
名前島津豊久
本名・幼名又七郎
別称妖怪首置いてけ(史料上の異名ではなく、立場や特徴を表す呼び方です)
生年1570年
没年1600年
出身薩摩(鹿児島県)
勢力島津
役職武将

島津豊久の生涯

島津家久の嫡男。父は沖田畷の戦いで龍造寺隆信を討ち取った名将。朝鮮出兵では叔父・義弘と共に参加し、泗川の戦いなどで武功を挙げた。

1600年の関ヶ原の戦いでは叔父・義弘と共に西軍に属する。敗戦後の「島津の退き口」では、義弘を逃がすため自ら殿(しんがり)を務めて壮絶な戦死を遂げた。

退却戦では「捨て奸(すてがまり)」戦法で追撃軍を足止め。井伊直政を負傷させ(この傷が直政の死因となったとも)、本多忠勝隊とも交戦しながら義弘の脱出を成功させた。

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性格・人物像

父譲りの猛将。義弘への忠義は揺るぎなく、自らの命を捨てて主君を守る覚悟を示した。関ヶ原での行動は、島津武士の気概を天下に示すものであった。

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名言

「ここが死に場所ぞ!」(関ヶ原退却戦にて・伝承)

現代語訳
ここが自分の死に場所だ。
解説・背景
関ヶ原の戦いで西軍が敗走する中、島津義弘を敵中突破で逃がすため自ら殿を務め討死したとされる豊久の最期の言葉。「島津の退き口」と呼ばれる壮絶な撤退戦を象徴する逸話として知られる。

トリビア

  • 漫画「ドリフターズ」(平野耕太)の主人公として知名度が大幅に上がった。
  • 関ヶ原での「捨て奸」は、小隊が殿として残り、全滅するまで戦い続ける壮絶な戦法。
  • 井伊直政に深手を負わせたのは豊久(または豊久隊)とされ、直政は2年後にこの傷がもとで死去。
  • 享年30(31歳説もあり)。若くして散った悲劇の武将として、島津家中では英雄視されている。

歴史的議論

豊久の最期の場所・状況には諸説ある。岐阜県関ヶ原町の烏頭坂で討死とする説が通説だが、正確な場所は確定していない。遺体の発見場所も不明。

最期

1600年9月15日、関ヶ原の退却戦にて戦死。享年30。叔父・義弘を逃がすため殿を務め、壮絶な最期を遂げた。島津家における最大の英雄の一人として今も語り継がれている。

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参戦した合戦

人物関係

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主従

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よくある質問

Q. 島津豊久の出身はどこ?

島津豊久は薩摩(現在の鹿児島県)の出身です。

Q. 島津豊久の代表的な戦いは?

島津豊久は九州征伐、小田原征伐、文禄・慶長の役、関ヶ原の戦いに参戦しています。

Q. 島津豊久の最期は?

1600年9月15日、関ヶ原の退却戦にて戦死。享年30。叔父・義弘を逃がすため殿を務め、壮絶な最期を遂げた。島津家における最大の英雄の一人として今も語り継がれている。

Q. 島津豊久の名言は?

「ここが死に場所ぞ!」(関ヶ原退却戦にて・伝承)

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