島津氏とは?本拠・当主・勢力の広がり

島津氏を30秒で

島津氏は鎌倉時代に薩摩・大隅・日向の守護に任じられた家で、その家系がそのまま戦国大名になりました。

貴久が分家との抗争を収めて三州統一の道筋をつけ、義久・義弘・歳久・家久の四兄弟が各方面を担って九州を北上します。耳川で大友を、沖田畷で龍造寺を破りました。

1587年に豊臣秀吉の20万余に降伏。関ヶ原では西軍につきながら、敵中突破の撤退と戦後交渉によって本領を保ちました。

本拠と領域

薩摩国(内城→鹿児島城)

歴代当主

  1. 島津貴久のAI生成イメージ 島津貴久 〜1566年 分家との抗争を制し、鉄砲を早くから導入した。1566年に隠居して義久へ家督を譲り、1571年に没した。
  2. 島津義久のAI生成イメージ 島津義久 1566年〜1611年 当主として全体の政略を担い、九州の大半を制圧した。
  3. 島津義弘のAI生成イメージ 島津義弘 (実質的な軍事指揮者) 各地の戦場で軍を率いた。関ヶ原の退き口で知られる。

どのように勢力を広げた?

島津の戦い方の中心は「釣り野伏せ」です。中央の部隊が退却を装って敵を引き込み、左右に伏せた部隊が三方から包囲します。耳川・沖田畷・戸次川で繰り返し機能しました。

兄弟が役割を分担していたことも特徴です。義久が政略、義弘が軍事、歳久が謀略、家久が用兵という形で、当主が複数の戦線を同時に扱えました。

拡大は日向・肥後・肥前へと進み、1586年には豊後へ侵攻して大友氏を追い詰めます。

最盛期

1586年末が最大版図です。九州のほぼ全域に影響を及ぼし、残るは豊後の一部のみという状態でした。翌年、豊臣の大軍が来ます。

主な合戦

他勢力との関係

大友氏
耳川で破り、豊後まで攻め込んだ。大友の救援要請が九州征伐を招いた。
龍造寺氏
沖田畷で当主・隆信を討ち取り、肥前への進出路を開いた。
豊臣氏
20万余の前に降伏。薩摩・大隅と日向の一部を安堵された。
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衰退・その後

島津氏は滅んでいません。九州征伐で本領を安堵され、関ヶ原では西軍につきながらも所領を保ちました。

関ヶ原の「島津の退き口」——敵中を正面突破して撤退した行動と、その後の粘り強い交渉が、改易を免れた要因とされます。

江戸時代を通じて薩摩藩として続き、幕末に倒幕の中心となりました。

関連グループ

島津氏に属した武将(8人)

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