どのように勢力を広げた?
島津の戦い方の中心は「釣り野伏せ」です。中央の部隊が退却を装って敵を引き込み、左右に伏せた部隊が三方から包囲します。耳川・沖田畷・戸次川で繰り返し機能しました。
兄弟が役割を分担していたことも特徴です。義久が政略、義弘が軍事、歳久が謀略、家久が用兵という形で、当主が複数の戦線を同時に扱えました。
拡大は日向・肥後・肥前へと進み、1586年には豊後へ侵攻して大友氏を追い詰めます。
島津氏は鎌倉時代に薩摩・大隅・日向の守護に任じられた家で、その家系がそのまま戦国大名になりました。
貴久が分家との抗争を収めて三州統一の道筋をつけ、義久・義弘・歳久・家久の四兄弟が各方面を担って九州を北上します。耳川で大友を、沖田畷で龍造寺を破りました。
1587年に豊臣秀吉の20万余に降伏。関ヶ原では西軍につきながら、敵中突破の撤退と戦後交渉によって本領を保ちました。
薩摩国(内城→鹿児島城)
島津貴久
〜1566年
分家との抗争を制し、鉄砲を早くから導入した。1566年に隠居して義久へ家督を譲り、1571年に没した。
島津義久
1566年〜1611年
当主として全体の政略を担い、九州の大半を制圧した。
島津義弘
(実質的な軍事指揮者)
各地の戦場で軍を率いた。関ヶ原の退き口で知られる。
島津の戦い方の中心は「釣り野伏せ」です。中央の部隊が退却を装って敵を引き込み、左右に伏せた部隊が三方から包囲します。耳川・沖田畷・戸次川で繰り返し機能しました。
兄弟が役割を分担していたことも特徴です。義久が政略、義弘が軍事、歳久が謀略、家久が用兵という形で、当主が複数の戦線を同時に扱えました。
拡大は日向・肥後・肥前へと進み、1586年には豊後へ侵攻して大友氏を追い詰めます。
1586年末が最大版図です。九州のほぼ全域に影響を及ぼし、残るは豊後の一部のみという状態でした。翌年、豊臣の大軍が来ます。
1578年11月
日向国・耳川
1584年3月
肥前国・沖田畷
1586年12月
豊後国・戸次川
1587年
九州全域
1590年
相模国・小田原城
1592年〜1598年
朝鮮半島
島津氏は滅んでいません。九州征伐で本領を安堵され、関ヶ原では西軍につきながらも所領を保ちました。
関ヶ原の「島津の退き口」——敵中を正面突破して撤退した行動と、その後の粘り強い交渉が、改易を免れた要因とされます。
江戸時代を通じて薩摩藩として続き、幕末に倒幕の中心となりました。