文禄・慶長の役とは?撤退(秀吉の死去により終結)

1592年〜1598年|朝鮮半島

30秒でわかる文禄・慶長の役

国内統一を終えた豊臣秀吉が、明の征服を掲げて朝鮮半島へ出兵した二度の戦役です(文禄の役1592年、慶長の役1597年)。

緒戦は快進撃でしたが、李舜臣の水軍による補給路の遮断、朝鮮各地の義兵、明の援軍によって戦線は膠着します。

1598年の秀吉の死により全軍撤退。得るものはなく、動員された西国大名の疲弊と、文治派・武断派の対立という深い亀裂だけが残りました。

基本情報

戦名文禄・慶長の役
時期1592年〜1598年
場所朝鮮半島
現在の場所朝鮮半島各地(釜山・漢城・平壌・蔚山など)/出兵拠点は佐賀県唐津市の名護屋城跡
両軍日本軍 vs 朝鮮・明連合軍
主な武将豊臣秀吉加藤清正島津義弘黒田官兵衛小早川隆景立花宗茂 ほか
結果撤退(秀吉の死去により終結)

なぜ文禄・慶長の役は起きた?

秀吉は国内統一の前後から、明への出兵構想を諸大名や宣教師に語っていました。動機については、恩賞に充てる領地の不足、貿易統制、政権の求心力維持など複数の説があります。

秀吉は朝鮮に「明へ入る道を貸せ」と要求しますが、明の冊封体制下にある朝鮮はこれを拒否しました。

戦う直前の状況

肥前名護屋に巨大な城と陣所群が築かれ、全国の大名が動員されました。総勢は15万を超えます。

両軍の顔ぶれ

日本軍

主な指揮
小西行長・加藤清正・黒田長政・宇喜多秀家・島津義弘(秀吉は名護屋に滞在)
兵力
文禄の役で約15万8千

陸戦は優勢だったが、水軍と補給に弱点を抱えた。

朝鮮・明連合軍

主な指揮
李舜臣・権慄・李如松
兵力
不明

水軍の制海権確保と義兵の遊撃、明の援軍で戦線を押し返した。

兵力の数字は、軍記物に由来するものを含め史料によって大きく開きがあります。ここでは広く引かれている数値を挙げていますが、実数はこれより少なかったとする研究もあります。

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  • 1592年〜1598年
  • 朝鮮半島
  • オフライン対応
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戦いの流れ

  1. 釜山上陸(1592年4月) 小西行長らが上陸。約20日で漢城(ソウル)を占領した。
  2. 平壌まで進出(6月) 小西軍が平壌、加藤軍は咸鏡道まで進む。
  3. 李舜臣の水軍(夏) 閑山島海戦などで日本水軍が敗れ、海上補給路が断たれた。
  4. 義兵と明軍(冬〜1593年) 各地で義兵が蜂起し、明の援軍が到着。平壌が奪回される。
  5. 碧蹄館・幸州(1593年) 碧蹄館で日本軍が明軍を破るが、幸州山城では敗退。戦線が膠着した。
  6. 講和交渉と決裂(1593〜96年) 小西行長と沈惟敬が講和を進めるが、双方の要求が食い違ったまま交渉が破綻した。
  7. 慶長の役(1597年) 再出兵。朝鮮南部に倭城を築いて確保する方針に変わる。蔚山城の戦いなどで消耗した。
  8. 撤退(1598年) 秀吉の死により五大老が撤退を命令。露梁海戦を経て全軍が帰国した。

勝敗を分けたポイント

  • 海上補給を断たれた陸戦で勝ち続けても、兵糧が届かなければ前進を維持できない。李舜臣の水軍がこの一点を突いた。
  • 占領統治の準備がなかった各地で義兵が蜂起し、占領地を維持するだけで兵力を消費した。
  • 講和の前提が食い違っていた明側は「日本の降伏」、秀吉側は「明の譲歩」を前提に交渉しており、成立する余地がなかった。
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各武将の戦術

戦いの後どうなった?

朝鮮半島は国土が荒廃し、日本へ多くの人と技術(陶工など)が連行されました。明も国力を消耗し、後の女真族台頭の一因になったとされます。

日本国内では、前線で戦った加藤清正・福島正則ら武断派と、後方支援・監察にあたった石田三成ら文治派の対立が深刻化します。

この対立が2年後の関ヶ原の戦いへ直結しました。

なぜこの戦いが重要なのか

得たものがなく、失ったものが大きかった戦役です。豊臣政権が家臣団の分裂を抱えたまま秀吉を失ったことが、徳川家康に主導権を渡す最大の要因になりました。

諸説・よくある誤解

出兵の目的は?

明征服を掲げていましたが、恩賞用の領地確保、大名の力を削ぐため、秀吉個人の構想など複数の説があり、定説はありません。

参戦武将

前後の出来事

関連する合戦

よくある質問

Q. 文禄・慶長の役とはどんな戦い?

文禄・慶長の役は、1592年〜1598年に朝鮮半島で行われた合戦です。豊臣秀吉・加藤清正・島津義弘・黒田官兵衛らが戦い、結果は撤退(秀吉の死去により終結)でした。

Q. 文禄・慶長の役はいつ・どこで起きた?

文禄・慶長の役は1592年〜1598年に朝鮮半島(朝鮮半島各地(釜山・漢城・平壌・蔚山など)/出兵拠点は佐賀県唐津市の名護屋城跡)で起きました。

Q. 文禄・慶長の役の結果は?

撤退(秀吉の死去により終結)

Q. 文禄・慶長の役の参戦武将は?

豊臣秀吉、加藤清正、島津義弘、黒田官兵衛、小早川隆景、立花宗茂、石田三成、毛利輝元、小早川秀包、黒田長政、小西行長、加藤嘉明、脇坂安治、細川忠興、片倉小十郎、鍋島直茂、伊達成実、浅野長政が参戦しています。

参考資料

  • 史料「朝鮮日々記」
  • 史料「征韓録」
  • 史料「懲毖録(柳成龍)」

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