なぜ三方ヶ原の戦いは起きた?
1572年10月、武田信玄が2万5千を率いて甲斐を出発しました。将軍・足利義昭の呼びかけによる信長包囲網の一環で、目標は上洛または織田領への圧迫だったとされます(信玄の最終目的については議論があります)。
徳川家康は織田信長の同盟者として、この進路上に立っていました。
戦う直前の状況
武田軍は二俣城を落とし、浜松城へ迫ります。ところが城を攻めず、目の前を素通りして三方ヶ原台地を西へ進みました。家康の兵は約8千(織田からの援軍3千を含む)で、武田軍の三分の一です。
元亀3年12月(1573年1月)|遠江国・三方ヶ原
西上を開始した武田信玄が、浜松城の徳川家康を野戦に引きずり出して撃破した戦いです。
家康は籠城すべきという声を退けて出撃し、鶴翼の陣で武田の魚鱗の陣に挑みますが、2時間ほどで壊滅しました。夏目吉信ら多くの家臣が家康の身代わりとなって討たれています。
家康の生涯で最大の敗戦であり、その後の慎重な用兵の原点になったと語られます。
| 戦名 | 三方ヶ原の戦い |
|---|---|
| 時期 | 元亀3年12月(1573年1月) |
| 場所 | 遠江国・三方ヶ原 |
| 現在の場所 | 静岡県浜松市中央区三方原町周辺 |
| 両軍 | 武田軍 vs 徳川・織田連合軍 |
| 主な武将 | 武田信玄、徳川家康、本多忠勝、酒井忠次、服部半蔵、山県昌景 ほか |
| 結果 | 武田軍の圧勝 |
1572年10月、武田信玄が2万5千を率いて甲斐を出発しました。将軍・足利義昭の呼びかけによる信長包囲網の一環で、目標は上洛または織田領への圧迫だったとされます(信玄の最終目的については議論があります)。
徳川家康は織田信長の同盟者として、この進路上に立っていました。
武田軍は二俣城を落とし、浜松城へ迫ります。ところが城を攻めず、目の前を素通りして三方ヶ原台地を西へ進みました。家康の兵は約8千(織田からの援軍3千を含む)で、武田軍の三分の一です。
兵力の数字は、軍記物に由来するものを含め史料によって大きく開きがあります。ここでは広く引かれている数値を挙げていますが、実数はこれより少なかったとする研究もあります。
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誰がどこで動き、どの勢力がぶつかったのか。参戦武将をタップしながら、戦いの流れと人物のつながりを追えます。
元亀3年12月(1573年1月)
武田信玄
魚鱗の陣で徳川軍を正面から粉砕。信玄の用兵の妙が光る。
徳川家康
籠城策を退け野戦を挑むも惨敗。浜松城への撤退時に空城の計を用いたとも。
本多忠勝
殿軍を務めて主君の撤退を支える。
酒井忠次
太鼓を打ち鳴らして武田軍を警戒させ、追撃を躊躇させた(浜松城の太鼓)。
服部半蔵
家康の撤退を支える忍び衆を率いて殿軍に加わる。
山県昌景
赤備えの先鋒として徳川軍に突撃し、壊滅的な打撃を与える。
馬場信春
武田軍の右翼を率いて徳川軍を圧倒。
大久保忠世
徳川軍の一翼として奮戦するも武田の猛攻に敗走。
武田軍は野田城を落としますが、信玄の病状が悪化し、1573年4月に信濃駒場で死去します。武田軍は撤退し、西上作戦は未完に終わりました。
家康は敗戦後も浜松を保ち、信玄の死後は徐々に武田領へ逆襲していきます。1575年の長篠で立場が逆転しました。
信長包囲網が最も機能した瞬間でした。もし信玄が病に倒れなければ、織田・徳川は東西から挟撃されていた可能性があります。歴史が「人ひとりの寿命」で変わった例としてよく引かれます。
敗戦を戒めるため家康が自らの姿を描かせたと語られてきましたが、この由来は近代以降に広まったもので、根拠となる同時代史料は確認されていません。

東照大権現

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三方ヶ原の戦いは、元亀3年12月(1573年1月)に遠江国・三方ヶ原で行われた合戦です。武田信玄・徳川家康・本多忠勝・酒井忠次らが戦い、結果は武田軍の圧勝でした。
三方ヶ原の戦いは元亀3年12月(1573年1月)に遠江国・三方ヶ原(静岡県浜松市中央区三方原町周辺)で起きました。
武田軍の圧勝
武田信玄、徳川家康、本多忠勝、酒井忠次、服部半蔵、山県昌景、馬場信春、大久保忠世が参戦しています。