武田信玄の家臣団とは
武田家臣団の特徴は、役割がはっきり分かれていたことです。山県昌景・馬場信春・内藤昌豊・高坂昌信は「武田四天王」と後世に呼ばれ、それぞれ別の方面を任されていました。
とくに高坂昌信は海津城に置かれ、上杉謙信への備えを専任しています。方面ごとに常駐の指揮官を置く形は、広い版図を維持するために必要な仕組みでした。
一方で、小山田氏や真田氏のように半独立的な立場を保った国人もいます。武田家臣団は一枚岩ではなく、譜代・一門・外様の性格差を抱えたままでした。
甲斐の虎 — 武田の大名
武田信玄の家臣団は、甲斐の譜代衆・一門衆に、信濃を制圧する過程で組み込んだ国人衆が加わってできています。
「武田二十四将」という括りが有名ですが、これは信玄が選んだ精鋭部隊の名称ではありません。江戸時代に武田家を代表する家臣をまとめて呼ぶようになったもので、絵画の題材として広まりました。
武田家臣団の特徴は、役割がはっきり分かれていたことです。山県昌景・馬場信春・内藤昌豊・高坂昌信は「武田四天王」と後世に呼ばれ、それぞれ別の方面を任されていました。
とくに高坂昌信は海津城に置かれ、上杉謙信への備えを専任しています。方面ごとに常駐の指揮官を置く形は、広い版図を維持するために必要な仕組みでした。
一方で、小山田氏や真田氏のように半独立的な立場を保った国人もいます。武田家臣団は一枚岩ではなく、譜代・一門・外様の性格差を抱えたままでした。

三郎兵衛尉
赤備えを率いた武田の先鋒。三方ヶ原・長篠で正面を担い、長篠で討死した。信玄が「わが両眼のごとし」と評したと伝わる。

不死身の鬼美濃
築城の名手で、生涯70回以上の合戦で傷を負わなかったと伝わる。長篠では殿軍を務めて討死した。

逃げ弾正
海津城に常駐して上杉謙信に備えた。第四次川中島では別働隊を率いたとされる。武田家臣で数少ない天寿を全うした一人。

修理亮
西上野の統治を任され、箕輪城代を務めた。行政能力の高さで知られる。長篠で討死。

攻め弾正
信濃小県の国人。砥石城を調略で落とし、信玄の信濃制圧に貢献した。子孫が真田氏として独立していく。

郡内の支配者
郡内を治めた国人領主。武田滅亡の際に勝頼を岩殿城へ迎え入れず、離反した。
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武田信玄の関係図をアプリで見る後世に「武田四天王」と呼ばれた4人。それぞれ別の方面を任され、部隊を率いた。

三郎兵衛尉
武田四天王の一人。赤備え(全身赤色の武装)を率いた猛将で、三方ヶ原の戦いでは先鋒として徳川軍を蹴散らした。

不死身の鬼美濃
武田四天王の一人。70回以上の合戦に参加しながら一度も負傷しなかったと伝わり「不死身の鬼美濃」の異名を持つ。

修理亮
武田四天王の一人。信玄に「古典厩(武田信繁)に並ぶ副将」と評された知勇兼備の名将。

逃げ弾正
武田四天王の一人で、本名は春日虎綱。海津城の城代として上杉謙信の侵攻に備え、北信濃防衛の要となった。
信玄の父・信虎の代から仕え、家督相続や信濃侵攻の初期を支えた古参。上田原の戦いなどで多くが討死した。

甲斐の忠臣
武田信虎・信玄に仕えた重臣。信玄の初陣・海ノ口城攻めで後見を務め、信虎追放にも関与した。

武田の両翼
武田信虎・信玄二代に仕えた猛将。信玄の父・信虎時代から武田家の重臣として活躍し、「武田の両翼」と称された。

甲山の猛虎
武田家の重臣で「赤備え」の創始者とも伝わる猛将。山県昌景の兄(異説あり)。

槍の横田
武田信虎・信玄に仕えた勇将。槍術に優れ「槍の横田」と称された。

鬼美濃
武田信玄に仕えた猛将。「鬼美濃」の異名を持ち、数々の戦場で武功を立てた。

鬼虎
武田信虎・信玄に仕えた歴戦の勇将。生涯36度の合戦に参加し、全身に40以上の傷を受けながらも生き延びた猛者。

武田の古強者
武田家の古参の家臣。多田源氏の末裔を称し、信虎・信玄の二代に仕えた。
信濃制圧の過程で武田に従った国人。地元の地理と人脈を活かして先鋒を務めた。

攻め弾正
真田昌幸の父。武田信玄に仕え、難攻不落と言われた砥石城を調略で落とし「攻め弾正」の異名を得た。

真田の嫡男
真田幸隆の嫡男で、真田昌幸の兄。武田信玄・勝頼に仕え、武田二十四将の一人に数えられる。

伯耆守
武田二十四将の一人。信濃・三河方面の最前線を任された猛将で、岩村城を攻略し東美濃を制圧した。
長篠以降の武田家を支えた世代。多くが長篠と天目山で失われた。

長篠の忠臣
武田信玄・勝頼に仕えた若き猛将。長篠の戦いでは織田・徳川連合軍の馬防柵に真っ先に取り付いたが、銃撃を受けて討ち死にした。

長篠の盾
武田信玄・勝頼に仕えた家臣。長篠の戦いで鳶ヶ巣山砦を守備するも、酒井忠次の奇襲を受けて奮戦の末に討ち死にした。

赤備えの継承者
小幡虎盛の子で、武田信玄・勝頼に仕えた。父と同じく武田二十四将の一人に数えられる。

信玄の奉行
武田信玄・勝頼に仕えた家臣。足軽大将として行政面でも活躍し、信玄の軍政を支えた。

武田の知将
武田信玄に仕えた家臣で、築城術に長けた知将。信玄の近習から身を起こし、武田二十四将に数えられるまでになった。

武田の忠臣
武田信玄・勝頼に仕えた家臣。武田二十四将の一人に数えられる。
武田に従いつつ、自領の支配権を保った領主。武田滅亡時の去就がそれぞれ分かれた。
1553年〜1564年
信濃国・川中島
1569年10月
相模国・三増峠
元亀3年12月(1573年1月)
遠江国・三方ヶ原
1575年5月
三河国・長篠
長篠の戦いで山県昌景・馬場信春・内藤昌豊・原昌胤ら宿将が一日で失われ、指揮できる層が急激に薄くなりました。
1582年の武田滅亡時には、木曾義昌・穴山梅雪・小山田信茂といった一門・国人が相次いで離反します。
生き残った家臣の多くは徳川家康に登用されました。井伊直政に付けられた旧武田家臣が「井伊の赤備え」となり、山県昌景の赤備えが徳川軍の中で受け継がれます。真田氏は独立した大名として存続しました。