武田信玄の家臣一覧|武田を支えた武将たち

武田信玄

甲斐の虎 — 武田の大名

武田信玄の家臣団は、甲斐の譜代衆・一門衆に、信濃を制圧する過程で組み込んだ国人衆が加わってできています。

「武田二十四将」という括りが有名ですが、これは信玄が選んだ精鋭部隊の名称ではありません。江戸時代に武田家を代表する家臣をまとめて呼ぶようになったもので、絵画の題材として広まりました。

武田信玄の家臣団とは

武田家臣団の特徴は、役割がはっきり分かれていたことです。山県昌景・馬場信春・内藤昌豊・高坂昌信は「武田四天王」と後世に呼ばれ、それぞれ別の方面を任されていました。

とくに高坂昌信は海津城に置かれ、上杉謙信への備えを専任しています。方面ごとに常駐の指揮官を置く形は、広い版図を維持するために必要な仕組みでした。

一方で、小山田氏や真田氏のように半独立的な立場を保った国人もいます。武田家臣団は一枚岩ではなく、譜代・一門・外様の性格差を抱えたままでした。

まず知っておきたい家臣

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家臣団はどう構成されていた?(全21人)

信玄を支えた宿将(武田四天王)4人

後世に「武田四天王」と呼ばれた4人。それぞれ別の方面を任され、部隊を率いた。

信虎・信玄初期からの譜代7人

信玄の父・信虎の代から仕え、家督相続や信濃侵攻の初期を支えた古参。上田原の戦いなどで多くが討死した。

信濃から加わった先方衆3人

信濃制圧の過程で武田に従った国人。地元の地理と人脈を活かして先鋒を務めた。

勝頼の代を支えた世代6人

長篠以降の武田家を支えた世代。多くが長篠と天目山で失われた。

半独立的な立場の国人1人

武田に従いつつ、自領の支配権を保った領主。武田滅亡時の去就がそれぞれ分かれた。

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この家臣団が戦った主な合戦

家臣団はその後どうなった?

長篠の戦いで山県昌景・馬場信春・内藤昌豊・原昌胤ら宿将が一日で失われ、指揮できる層が急激に薄くなりました。

1582年の武田滅亡時には、木曾義昌・穴山梅雪・小山田信茂といった一門・国人が相次いで離反します。

生き残った家臣の多くは徳川家康に登用されました。井伊直政に付けられた旧武田家臣が「井伊の赤備え」となり、山県昌景の赤備えが徳川軍の中で受け継がれます。真田氏は独立した大名として存続しました。

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