なぜ三増峠の戦いは起きた?
1568年、武田信玄が駿河へ侵攻して今川領を奪ったことで、甲斐・相模・駿河の三国同盟が崩れました。北条氏政は今川を支援して武田と敵対します。
信玄は北条の本拠・小田原まで攻め込みますが、小田原城は落とせません。撤退にあたって、北条軍が退路の三増峠で待ち構えていました。
戦う直前の状況
三増峠は甲斐へ帰る武田軍が必ず通る狭い峠道です。北条氏照・氏邦の軍が先回りして峠を押さえ、小田原からは氏政の本隊が追ってきていました。挟撃されれば武田軍は壊滅します。
1569年10月|相模国・三増峠
小田原城を攻めた武田信玄が撤退する途中、追撃してきた北条軍を三増峠で迎え撃って破った戦いです。
退却中の軍が追撃側を返り討ちにした例として知られます。武田側は浅利信種を失いましたが、北条方の損害はそれを上回りました。
この戦いで甲相同盟の破綻が決定的になり、武田は駿河併合へ進みます。
| 戦名 | 三増峠の戦い |
|---|---|
| 時期 | 1569年10月 |
| 場所 | 相模国・三増峠 |
| 現在の場所 | 神奈川県愛甲郡愛川町・相模原市緑区(三増峠古戦場) |
| 両軍 | 武田軍 vs 北条軍 |
| 主な武将 | 武田信玄、北条氏康 |
| 結果 | 武田軍の勝利 |
1568年、武田信玄が駿河へ侵攻して今川領を奪ったことで、甲斐・相模・駿河の三国同盟が崩れました。北条氏政は今川を支援して武田と敵対します。
信玄は北条の本拠・小田原まで攻め込みますが、小田原城は落とせません。撤退にあたって、北条軍が退路の三増峠で待ち構えていました。
三増峠は甲斐へ帰る武田軍が必ず通る狭い峠道です。北条氏照・氏邦の軍が先回りして峠を押さえ、小田原からは氏政の本隊が追ってきていました。挟撃されれば武田軍は壊滅します。
峠で足止めし、本隊の到着を待って挟撃する構えだった。
兵力の数字は、軍記物に由来するものを含め史料によって大きく開きがあります。ここでは広く引かれている数値を挙げていますが、実数はこれより少なかったとする研究もあります。
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誰がどこで動き、どの勢力がぶつかったのか。参戦武将をタップしながら、戦いの流れと人物のつながりを追えます。
1569年10月
信玄は帰国後まもなく駿河へ再侵攻し、1571年までに駿河を併合します。
甲相同盟は1571年に再締結されますが、信玄の死後、勝頼の代で再び崩れました。
撤退戦は最も損害が出やすい局面です。そこで逆に戦果を挙げたことは、武田軍の運用能力の高さを示す例としてよく引かれます。武田の駿河併合が確定したという実質的な結果も大きいものでした。
三増峠の戦いは、1569年10月に相模国・三増峠で行われた合戦です。武田信玄・北条氏康が戦い、結果は武田軍の勝利でした。
三増峠の戦いは1569年10月に相模国・三増峠(神奈川県愛甲郡愛川町・相模原市緑区(三増峠古戦場))で起きました。
武田軍の勝利
武田信玄、北条氏康が参戦しています。