大友氏とは?本拠・当主・勢力の広がり

大友氏を30秒で

大友氏は鎌倉時代以来の豊後守護で、府内(現在の大分市)を本拠としました。

宗麟の代に豊後・豊前・筑前・筑後・肥前・肥後の六か国守護となり、九州最大の勢力になります。府内には南蛮船が入り、日本初の西洋式病院が建てられたと伝わります。

1578年の耳川の戦いで島津に大敗して以後は衰退し、1586年には豊臣秀吉に救援を求めました。子の義統が朝鮮出兵での失態により改易されます。

本拠と領域

豊後国(府内館・臼杵城)

歴代当主

  1. 大友義鑑 〜1550年 宗麟の父。二階崩れの変で家臣に殺害された。
  2. 大友宗麟(義鎮)のAI生成イメージ 大友宗麟(義鎮) 1550年〜1587年 九州六か国守護。南蛮貿易を推進し、1578年に洗礼を受けた。
  3. 大友義統 1576年〜1593年 宗麟の子。朝鮮出兵で戦線を放棄したとして改易された。

どのように勢力を広げた?

大友氏の力の源泉は貿易でした。博多と府内を押さえ、明・南蛮との交易で鉄砲や硝石を入手し、それを軍事力に転換しています。

毛利氏と北九州の支配権を争い、立花道雪・高橋紹運といった有力家臣が筑前方面を支えました。

最盛期

1570年代前半が最盛期です。九州六か国に守護職を持ち、動員兵力も九州最大でした。

主な合戦

他勢力との関係

毛利氏
北九州の博多・門司をめぐって争った。
島津氏
耳川で大敗し、以後は守勢。豊後まで攻め込まれ、秀吉に救援を求めた。
龍造寺氏
大友の衰退に乗じて肥前で自立し、九州は三つ巴になった。
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衰退・その後

耳川の戦いで重臣を大量に失い、支配下の国人が次々に離反しました。宗麟のキリスト教への傾倒が家中の反発を招いたとする見方もあります。

九州征伐で豊後は安堵されましたが、義統が朝鮮出兵の際に戦線を放棄したとして改易されます。

一方、家臣だった立花宗茂は独立した大名となり、柳川13万石を得ました。

大友氏に属した武将(6人)

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