どのように勢力を広げた?
大友氏の力の源泉は貿易でした。博多と府内を押さえ、明・南蛮との交易で鉄砲や硝石を入手し、それを軍事力に転換しています。
毛利氏と北九州の支配権を争い、立花道雪・高橋紹運といった有力家臣が筑前方面を支えました。
大友氏は鎌倉時代以来の豊後守護で、府内(現在の大分市)を本拠としました。
宗麟の代に豊後・豊前・筑前・筑後・肥前・肥後の六か国守護となり、九州最大の勢力になります。府内には南蛮船が入り、日本初の西洋式病院が建てられたと伝わります。
1578年の耳川の戦いで島津に大敗して以後は衰退し、1586年には豊臣秀吉に救援を求めました。子の義統が朝鮮出兵での失態により改易されます。
豊後国(府内館・臼杵城)
大友宗麟(義鎮)
1550年〜1587年
九州六か国守護。南蛮貿易を推進し、1578年に洗礼を受けた。
大友氏の力の源泉は貿易でした。博多と府内を押さえ、明・南蛮との交易で鉄砲や硝石を入手し、それを軍事力に転換しています。
毛利氏と北九州の支配権を争い、立花道雪・高橋紹運といった有力家臣が筑前方面を支えました。
1570年代前半が最盛期です。九州六か国に守護職を持ち、動員兵力も九州最大でした。
耳川の戦いで重臣を大量に失い、支配下の国人が次々に離反しました。宗麟のキリスト教への傾倒が家中の反発を招いたとする見方もあります。
九州征伐で豊後は安堵されましたが、義統が朝鮮出兵の際に戦線を放棄したとして改易されます。
一方、家臣だった立花宗茂は独立した大名となり、柳川13万石を得ました。