なぜ戸次川の戦いは起きた?
島津氏に追い詰められた大友宗麟が大坂へ赴き、秀吉に救援を求めました。秀吉は惣無事令に基づいて島津へ停戦を命じますが、島津は従いません。
秀吉は本隊の準備を進めつつ、四国勢を先遣隊として豊後へ送りました。
戦う直前の状況
島津家久が豊後へ侵攻し、鶴賀城を包囲します。先遣隊は大野川(戸次川)を挟んで島津軍と対峙しました。長宗我部元親は「本隊の到着を待つべき」と主張しますが、軍監の仙石秀久は渡河しての攻撃を主張します。
1586年12月|豊後国・戸次川
九州征伐の先遣隊として豊後へ入った仙石秀久・長宗我部元親・十河存保らが、島津家久に大敗した戦いです。
軍監の仙石秀久が渡河しての攻撃を強行し、島津の釣り野伏せに引き込まれました。長宗我部信親・十河存保が討死します。
豊臣方が九州で喫した唯一の大敗で、秀吉本隊の出陣を早める結果になりました。
| 戦名 | 戸次川の戦い |
|---|---|
| 時期 | 1586年12月 |
| 場所 | 豊後国・戸次川 |
| 現在の場所 | 大分県大分市中戸次(戸次川古戦場) |
| 両軍 | 島津軍 vs 豊臣先遣隊 |
| 主な武将 | 島津家久、長宗我部元親、長宗我部信親、仙石秀久 |
| 結果 | 島津軍の勝利 |
島津氏に追い詰められた大友宗麟が大坂へ赴き、秀吉に救援を求めました。秀吉は惣無事令に基づいて島津へ停戦を命じますが、島津は従いません。
秀吉は本隊の準備を進めつつ、四国勢を先遣隊として豊後へ送りました。
島津家久が豊後へ侵攻し、鶴賀城を包囲します。先遣隊は大野川(戸次川)を挟んで島津軍と対峙しました。長宗我部元親は「本隊の到着を待つべき」と主張しますが、軍監の仙石秀久は渡河しての攻撃を主張します。
兵力の数字は、軍記物に由来するものを含め史料によって大きく開きがあります。ここでは広く引かれている数値を挙げていますが、実数はこれより少なかったとする研究もあります。
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誰がどこで動き、どの勢力がぶつかったのか。参戦武将をタップしながら、戦いの流れと人物のつながりを追えます。
1586年12月
島津家久
釣り野伏せの戦法で豊臣先遣隊を殲滅。島津の戦術が遺憾なく発揮された。
長宗我部元親
仙石秀久の無謀な命令に従い渡河。嫡男・信親を失う痛恨の敗北。
長宗我部信親
父に代わり前線で奮戦するも、22歳の若さで壮烈な討死を遂げた。
仙石秀久
総大将として無謀な渡河攻撃を命じ大敗。責任を問われ高野山に追放された。
仙石秀久は無断退却を理由に所領を没収され、追放されました(のちに小田原征伐での戦功により大名へ復帰します)。
長宗我部元親は嫡男・信親を失い、以後の家督相続をめぐって家中が混乱しました。
秀吉は翌1587年に自ら20万を超える大軍を率いて九州へ出陣します。
島津の戦術が豊臣の大名を相手にしても通用したことを示した一方、「戦術で勝っても物量で覆される」という結末を用意した戦いでもあります。半年後、島津は秀吉本隊の前に降伏しました。
戸次川の戦いは、1586年12月に豊後国・戸次川で行われた合戦です。島津家久・長宗我部元親・長宗我部信親・仙石秀久が戦い、結果は島津軍の勝利でした。
戸次川の戦いは1586年12月に豊後国・戸次川(大分県大分市中戸次(戸次川古戦場))で起きました。
島津軍の勝利
島津家久、長宗我部元親、長宗我部信親、仙石秀久が参戦しています。