どのように勢力を広げた?
隆信の拡大は速く、耳川以後のわずか数年で九州北部の広い範囲に及びました。ただし服属させた国人の統制は緩く、離反も起きています。
有馬晴信の離反が沖田畷の戦いの発端になりました。
龍造寺氏は肥前の国人から出た家です。隆信の代に肥前を統一し、耳川で大友が崩れた後の九州で急速に版図を広げました。
筑前・筑後・肥後にも進出し、島津と並ぶ勢力になります。しかし1584年の沖田畷で隆信が討死しました。
以後、実権は義兄弟の鍋島直茂へ移り、江戸時代には鍋島氏が佐賀藩主となります。
肥前国(村中城・佐嘉城)
龍造寺隆信
1548年〜1584年
肥前を統一し、九州北部へ拡大。沖田畷で討死した。
隆信の拡大は速く、耳川以後のわずか数年で九州北部の広い範囲に及びました。ただし服属させた国人の統制は緩く、離反も起きています。
有馬晴信の離反が沖田畷の戦いの発端になりました。
1580年代前半が最盛期です。肥前・筑後を中心に、九州北部で島津と対抗しうる唯一の勢力でした。
沖田畷で当主と多くの重臣を一度に失ったことが決定的でした。政家は病弱で、家中をまとめられません。
豊臣政権は実権を握る鍋島直茂を事実上の当主として扱い、江戸時代には鍋島氏が佐賀藩主となりました。龍造寺の名跡は分家に残ります。