どのように勢力を広げた?
政宗の拡大は速さが際立ちます。1584年の家督相続から1589年の摺上原まで5年で、南奥州のほぼ全域を押さえました。
手法は正面からの攻勢と、相手方家中への調略の併用です。摺上原では蘆名方の猪苗代盛国を内応させ、会津への入口を先に確保しています。
一方で、北の大崎攻めでは寝返りと大雪に阻まれて失敗しました。伸長が常に順調だったわけではありません。
伊達氏は陸奥伊達郡を本貫地とし、戦国期には出羽の米沢城を本拠としていました。
1584年に18歳で家督を継いだ政宗は、人取橋で南奥州連合軍と戦い、摺上原で蘆名氏を滅ぼして会津を手に入れます。わずか5年で南奥州の大半を制圧しました。
しかし1590年の小田原参陣に遅れたため会津を没収され、以後は豊臣・徳川の秩序の中で家を保つことになります。最終的に仙台62万石の大名として江戸時代を迎えました。
陸奥国(米沢城→黒川城→岩出山城)→仙台城
伊達輝宗
1565年〜1584年
政宗の父。畠山義継に拉致され、銃撃戦のなかで死去した。
伊達政宗
1584年〜1636年
南奥州を制覇。奥州仕置で削られたのち、仙台藩62万石を築いた。
政宗の拡大は速さが際立ちます。1584年の家督相続から1589年の摺上原まで5年で、南奥州のほぼ全域を押さえました。
手法は正面からの攻勢と、相手方家中への調略の併用です。摺上原では蘆名方の猪苗代盛国を内応させ、会津への入口を先に確保しています。
一方で、北の大崎攻めでは寝返りと大雪に阻まれて失敗しました。伸長が常に順調だったわけではありません。
1589年の摺上原の勝利後が最大版図です。会津を含む114万石規模に達したとされますが、その状態は1年しか続きませんでした。
1585年11月
奥州・人取橋
1588年
陸奥国・大崎領
1589年6月
陸奥国・摺上原
1590年
相模国・小田原城
1592年〜1598年
朝鮮半島
1600年9月15日
美濃国・関ヶ原
伊達氏は滅びていません。ただし1590年の奥州仕置で会津を失い、1591年には葛西大崎一揆への関与を疑われて岩出山へ移されました。
関ヶ原では東軍につき、戦後に仙台城を築いて城下町を整備します。慶長遣欧使節を派遣するなど独自の動きも見せました。
南奥州統一という目標は達成されませんでしたが、大名家としては幕末まで続きます。

独眼竜

政宗の右目

伊達の猛将


小十郎二代目



鬼庭の名の通り

政宗の懐刀

伊達の盾

伊達の先鋒

白石の勇将

会津の裏切り者

文武の臣

伊達の守護

伊達の権臣

伊達の奉行

伊達の忠将

伊達の一門

伊達一門

伊達の宿老

伊達の重臣

伊達の守将

伊達の南の盾

伊達の臣

伊達の臣

伊達の臣

伊達の臣