なぜ摺上原の戦いは起きた?
蘆名氏は当主が相次いで死去し、佐竹義重の次男・義広を養子に迎えていました。しかし旧来の家臣と佐竹から来た家臣の間に対立があり、家中がまとまっていません。
政宗は蘆名家中の内応を進め、猪苗代盛国を味方につけました。
戦う直前の状況
1589年6月、猪苗代盛国の寝返りにより、政宗は猪苗代城を得て会津への入口を確保します。両軍は摺上原で対峙しました。
1589年6月|陸奥国・摺上原
伊達政宗が会津の蘆名義広を摺上原で破り、名門・蘆名氏を滅ぼした戦いです。
戦闘中に風向きが変わったこと、蘆名家中で家臣同士の対立があったことが重なり、蘆名軍は総崩れとなりました。
政宗は会津を手に入れ、南奥州最大の勢力になります。しかしその翌年、豊臣秀吉の奥州仕置で会津を没収されました。
| 戦名 | 摺上原の戦い |
|---|---|
| 時期 | 1589年6月 |
| 場所 | 陸奥国・摺上原 |
| 現在の場所 | 福島県磐梯町・猪苗代町(摺上原古戦場) |
| 両軍 | 伊達軍 vs 蘆名軍 |
| 主な武将 | 伊達政宗、片倉小十郎、伊達成実 |
| 結果 | 伊達軍の大勝 |
蘆名氏は当主が相次いで死去し、佐竹義重の次男・義広を養子に迎えていました。しかし旧来の家臣と佐竹から来た家臣の間に対立があり、家中がまとまっていません。
政宗は蘆名家中の内応を進め、猪苗代盛国を味方につけました。
1589年6月、猪苗代盛国の寝返りにより、政宗は猪苗代城を得て会津への入口を確保します。両軍は摺上原で対峙しました。
佐竹系家臣と蘆名旧臣の対立を抱えていた。
兵力の数字は、軍記物に由来するものを含め史料によって大きく開きがあります。ここでは広く引かれている数値を挙げていますが、実数はこれより少なかったとする研究もあります。
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誰がどこで動き、どの勢力がぶつかったのか。参戦武将をタップしながら、戦いの流れと人物のつながりを追えます。
1589年6月
伊達政宗
風向きが変わった好機を逃さず総攻撃を命じ、蘆名軍を壊滅させる。
片倉小十郎
政宗の参謀として戦略を立案。風向きの変化を見極め進言。
伊達成実
伊達軍の先鋒として突撃。蘆名軍の破壊に大きく貢献。
政宗は会津を含む南奥州の大半を支配し、最大版図を築きます。
しかし1590年、小田原征伐への参陣が遅れたことで秀吉に咎められ、会津は没収されて蒲生氏郷へ与えられました。政宗の領地は米沢周辺に戻ります。
1591年の葛西大崎一揆への関与を疑われ、さらに岩出山へ移されました。
奥州の勢力再編としては決定的な戦いでしたが、それが完成する寸前に全国統一の波が届きました。「地方での勝利が中央の秩序に上書きされる」という戦国終盤の構図を、最もはっきり示した例です。
摺上原の戦いは、1589年6月に陸奥国・摺上原で行われた合戦です。伊達政宗・片倉小十郎・伊達成実が戦い、結果は伊達軍の大勝でした。
摺上原の戦いは1589年6月に陸奥国・摺上原(福島県磐梯町・猪苗代町(摺上原古戦場))で起きました。
伊達軍の大勝
伊達政宗、片倉小十郎、伊達成実が参戦しています。