なぜ人取橋の戦いは起きた?
1585年、政宗は父・輝宗の代から従属していた大内定綱の離反を機に小手森城を攻め、城内の者を撫で斬りにしたと伝わります。
これに対し二本松の畠山義継が輝宗を拉致し、政宗は父もろとも銃撃するという事態が起きました(粟之巣の変事)。政宗が二本松城を攻めると、周辺の諸大名が連合して介入します。
戦う直前の状況
佐竹義重・蘆名亀王丸・岩城・石川・白河結城など南奥州のほぼ全勢力が連合し、3万で北上しました。伊達方は7千。兵力差は4倍以上です。
1585年11月|奥州・人取橋
家督を継いだばかりの伊達政宗(当時18歳)が、佐竹義重を中心とする南奥州連合軍3万に対し、7千で戦った合戦です。
政宗は劣勢のまま押し込まれ、本陣近くまで迫られますが、連合軍が突然撤退したため壊滅を免れました。
勝敗としては引き分けですが、若い政宗が南奥州の諸勢力を敵に回しても潰されなかったことが、以後の伸長につながります。
| 戦名 | 人取橋の戦い |
|---|---|
| 時期 | 1585年11月 |
| 場所 | 奥州・人取橋 |
| 現在の場所 | 福島県本宮市(人取橋古戦場・観音堂周辺) |
| 両軍 | 南奥州連合軍 vs 伊達軍 |
| 主な武将 | 伊達政宗 |
| 結果 | 引き分け(政宗は撤退) |
1585年、政宗は父・輝宗の代から従属していた大内定綱の離反を機に小手森城を攻め、城内の者を撫で斬りにしたと伝わります。
これに対し二本松の畠山義継が輝宗を拉致し、政宗は父もろとも銃撃するという事態が起きました(粟之巣の変事)。政宗が二本松城を攻めると、周辺の諸大名が連合して介入します。
佐竹義重・蘆名亀王丸・岩城・石川・白河結城など南奥州のほぼ全勢力が連合し、3万で北上しました。伊達方は7千。兵力差は4倍以上です。
兵力の数字は、軍記物に由来するものを含め史料によって大きく開きがあります。ここでは広く引かれている数値を挙げていますが、実数はこれより少なかったとする研究もあります。
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1585年11月
政宗は二本松城を翌1586年に落とし、南奥州での勢力を広げます。
1589年の摺上原で蘆名氏を破り、南奥州の大半を制圧しました。しかし翌1590年、秀吉の小田原参陣に遅れて所領を大きく削られます。
「若い当主が周囲全部を敵に回しても生き残った」という一戦です。政宗の急拡大はここから始まりますが、その拡大が完成する直前に豊臣の惣無事令が全国に及び、間に合いませんでした。
人取橋の戦いは、1585年11月に奥州・人取橋で行われた合戦です。伊達政宗が戦い、結果は引き分け(政宗は撤退)でした。
人取橋の戦いは1585年11月に奥州・人取橋(福島県本宮市(人取橋古戦場・観音堂周辺))で起きました。
引き分け(政宗は撤退)
伊達政宗が参戦しています。