豊臣秀吉の家臣一覧|天下統一を支えた武将・奉行たち

豊臣秀吉

日輪の子 — 豊臣の天下人

農民の出自から天下人へ上りつめた豊臣秀吉には、代々仕える譜代の家臣団がありませんでした。

そのため秀吉の家臣団は、織田家臣時代に集めた子飼いの武将、実務能力で登用した奉行、そして征伐によって臣従した大名という、性格の異なる集団の寄せ集めになっています。

この構成の違いが、秀吉の死後に武断派と文治派の対立となって表面化しました。

豊臣秀吉の家臣団とは

秀吉の家臣団を理解するうえで重要なのは、「直属の家臣」と「臣従した大名」がまったく別のものだということです。

加藤清正や福島正則は尾張時代から秀吉に仕えた子飼いで、秀吉個人への忠誠が基盤にあります。石田三成・増田長盛・長束正家らは近江出身の実務官僚で、検地や兵站の運営で政権を動かしました。

一方、伊達政宗・宇喜多秀家・長宗我部元親らは、それぞれ自国を持つ大名として豊臣の秩序に組み込まれた存在です。秀吉個人への忠誠ではなく、政権との契約に近い関係にありました。

まず知っておきたい家臣

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家臣団はどう構成されていた?(全20人)

政権の中枢を担った一門・側近3人

秀吉に最も近い立場で、政権全体を支えた人々。

軍事を支えた武将(子飼い衆)6人

秀吉が織田家臣だった時代から仕え、戦場で頭角を現した武将。多くが賤ヶ岳で武功を挙げた。

政権運営を担った奉行衆4人

検地・兵站・訴訟といった政権の実務を担当した。多くが近江出身で、五奉行として制度化された。

軍師・参謀として関わった人物2人

直属の家臣というより、作戦・交渉の面で秀吉を支えた立場。

豊臣政権に臣従した大名5人

直属の家臣ではなく、自らの領国を持ったまま豊臣の秩序に組み込まれた大名。関ヶ原での去就はそれぞれ分かれた。

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この家臣団が戦った主な合戦

家臣団はその後どうなった?

朝鮮出兵で、前線の武断派と後方の文治派の対立が決定的になりました。両者を抑えられたのは秀吉と秀長だけで、秀長は1591年に、秀吉は1598年に世を去ります。

1600年の関ヶ原で家臣団は真っ二つに割れました。加藤清正・福島正則ら子飼いの武将は東軍、石田三成・増田長盛ら奉行衆は西軍につきます。豊臣家を守るはずの家臣同士が戦ったことが、豊臣政権の実質的な終わりでした。

東軍についた豊臣恩顧の大名も、その後は改易や減封で徐々に力を削がれます。1615年の大坂の陣で豊臣家が滅び、家臣団も解体しました。

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