豊臣秀吉の家臣団とは
秀吉の家臣団を理解するうえで重要なのは、「直属の家臣」と「臣従した大名」がまったく別のものだということです。
加藤清正や福島正則は尾張時代から秀吉に仕えた子飼いで、秀吉個人への忠誠が基盤にあります。石田三成・増田長盛・長束正家らは近江出身の実務官僚で、検地や兵站の運営で政権を動かしました。
一方、伊達政宗・宇喜多秀家・長宗我部元親らは、それぞれ自国を持つ大名として豊臣の秩序に組み込まれた存在です。秀吉個人への忠誠ではなく、政権との契約に近い関係にありました。
日輪の子 — 豊臣の天下人
農民の出自から天下人へ上りつめた豊臣秀吉には、代々仕える譜代の家臣団がありませんでした。
そのため秀吉の家臣団は、織田家臣時代に集めた子飼いの武将、実務能力で登用した奉行、そして征伐によって臣従した大名という、性格の異なる集団の寄せ集めになっています。
この構成の違いが、秀吉の死後に武断派と文治派の対立となって表面化しました。
秀吉の家臣団を理解するうえで重要なのは、「直属の家臣」と「臣従した大名」がまったく別のものだということです。
加藤清正や福島正則は尾張時代から秀吉に仕えた子飼いで、秀吉個人への忠誠が基盤にあります。石田三成・増田長盛・長束正家らは近江出身の実務官僚で、検地や兵站の運営で政権を動かしました。
一方、伊達政宗・宇喜多秀家・長宗我部元親らは、それぞれ自国を持つ大名として豊臣の秩序に組み込まれた存在です。秀吉個人への忠誠ではなく、政権との契約に近い関係にありました。

大和大納言
秀吉の弟。四国攻めの総大将、九州攻めの日向方面軍を率い、大名間の調整も担った政権第二の実力者。1591年の死去が政権の転機になったとされる。

大一大万大吉
近江出身の奉行。太閤検地の実施、朝鮮出兵の兵站を担当した。実務能力は高かったが、前線の武将との軋轢を抱えた。

豊臣の知恵袋
播磨小寺氏の家老から秀吉の参謀へ。備中高松城の水攻めを献策し、中国大返しでも動いた。

鬼将軍
尾張出身の子飼い。賤ヶ岳七本槍の一人で、肥後熊本を与えられた。朝鮮出兵で前線を担い、三成との対立を深めた。

義の将
奉行としても武将としても働いた。関ヶ原では敗北を予期しながら三成に味方し、小早川の寝返りを受けて自刃した。

備前宰相
備前岡山57万石。秀吉の養女を妻とし、五大老に列した。臣従大名でありながら政権中枢に近い、特異な立場にあった。
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大和大納言
豊臣秀吉の弟。兄の天下統一を最も近くで支えた補佐役。

五奉行筆頭
豊臣政権の五奉行筆頭として行政・司法を統括した能吏。秀吉の正室・おねの義弟にあたり、小田原征伐では石田三成と共に兵站を担当。

東市正
賤ヶ岳の七本槍の一人。後に豊臣家の宿老として太閤検地の実務や大坂城の修築を担当した行政官型の武将。
秀吉が織田家臣だった時代から仕え、戦場で頭角を現した武将。多くが賤ヶ岳で武功を挙げた。

鬼将軍
秀吉子飼いの猛将。賤ヶ岳の七本槍の一人。

賤ヶ岳七本槍
賤ヶ岳の七本槍の一人。水軍の指揮に優れ、文禄・慶長の役で海戦を指揮。

賤ヶ岳七本槍
賤ヶ岳の七本槍の一人。水軍の将として活躍し、文禄の役で李舜臣と戦った。

遠江守
賤ヶ岳の七本槍の一人。他の六人が大名に出世する中、唯一旗本(5千石)に留まった。

内膳正
賤ヶ岳の七本槍の一人。播磨国出身で、秀吉に仕えて各地を転戦した。

戦国初の復活大名
豊臣秀吉に仕え、長篠の戦いでは信長の馬廻として参加。四国征伐後に讃岐を拝領するが、九州征伐の先陣・戸次川の戦いで島津軍に大敗し、長宗我部信親を死なせてしまう大失態を犯し改易。
検地・兵站・訴訟といった政権の実務を担当した。多くが近江出身で、五奉行として制度化された。

大一大万大吉
秀吉に見出され、豊臣政権の五奉行として行政手腕を振るった。太閤検地などで功績を挙げる。

太閤の奉行
豊臣政権の五奉行の一人。検地奉行として全国の石高調査に尽力し、豊臣政権の財政基盤を支えた。

算術の達人
豊臣政権の五奉行の一人。算術に長け、兵粮奉行として秀吉の軍事行動を財政面から支えた。

京都の番人
豊臣政権の五奉行の一人。元は僧侶で織田信忠に仕え、本能寺の変後に豊臣秀吉に重用された。
直属の家臣というより、作戦・交渉の面で秀吉を支えた立場。

豊臣の知恵袋
秀吉の軍師。中国大返し、四国・九州征伐など数々の戦いで知略を発揮。

義の将
石田三成の盟友。関ヶ原では西軍として参戦し、病を押して輿に乗りながら指揮。
直属の家臣ではなく、自らの領国を持ったまま豊臣の秩序に組み込まれた大名。関ヶ原での去就はそれぞれ分かれた。

独眼竜
奥州の戦国大名。幼少期に右目を失明し「独眼竜」と称された。

備前宰相
豊臣政権の五大老の一人。関ヶ原の戦いでは西軍の主力として奮戦。

キリシタン大名
豪商小西隆佐の子。キリシタン大名として知られる。

洞ヶ峠の日和見
大和国の戦国大名。松永久秀との激しい抗争を経て大和を統一。

土佐の太守
織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三英傑に仕えた武将。妻・千代(見性院)が馬を買うために持参金を差し出した「内助の功」の逸話で名高い。
1570年4月
越前国・金ヶ崎
1570年6月
近江国・姉川
1575年5月
三河国・長篠
1578年
播磨国・上月城
1578年〜1580年
播磨国・三木城
1582年4月〜6月
備中国・高松城
朝鮮出兵で、前線の武断派と後方の文治派の対立が決定的になりました。両者を抑えられたのは秀吉と秀長だけで、秀長は1591年に、秀吉は1598年に世を去ります。
1600年の関ヶ原で家臣団は真っ二つに割れました。加藤清正・福島正則ら子飼いの武将は東軍、石田三成・増田長盛ら奉行衆は西軍につきます。豊臣家を守るはずの家臣同士が戦ったことが、豊臣政権の実質的な終わりでした。
東軍についた豊臣恩顧の大名も、その後は改易や減封で徐々に力を削がれます。1615年の大坂の陣で豊臣家が滅び、家臣団も解体しました。