豊臣五奉行の5人
文化遺産オンラインには、秀吉が亡くなった直後の1598年8月25日に、この5人が連名で鍋島直茂へ送った文書が残されています。

石田三成
大一大万大吉
秀吉に見出され、豊臣政権の五奉行として行政手腕を振るった。太閤検地などで功績を挙げる。

浅野長政
五奉行筆頭
豊臣政権の五奉行筆頭として行政・司法を統括した能吏。秀吉の正室・おねの義弟にあたり、小田原征伐では石田三成と共に兵站を担当。

前田玄以
京都の番人
豊臣政権の五奉行の一人。元は僧侶で織田信忠に仕え、本能寺の変後に豊臣秀吉に重用された。

増田長盛
太閤の奉行
豊臣政権の五奉行の一人。検地奉行として全国の石高調査に尽力し、豊臣政権の財政基盤を支えた。

長束正家
算術の達人
豊臣政権の五奉行の一人。算術に長け、兵粮奉行として秀吉の軍事行動を財政面から支えた。
五奉行は何をしていた?
五奉行は、豊臣政権の行政や財政、検地、寺社・都市に関する政務、各大名との連絡、文書の発給など、さまざまな実務に関わりました。
実際の豊臣政権では複数の奉行が連署して文書を出すこともあり、さまざまな政務を共同で処理していました。
五大老との違いは?
五大老には徳川家康・前田利家・毛利輝元など、大きな領国を持つ有力大名が含まれます。
一方、五奉行には秀吉政権の内部で長く実務に携わってきた人物たちが含まれました。
大まかには、「有力大名として政権を支えた五大老」「政務の実務を支えた五奉行」という違いがあります。
石田三成は五奉行のリーダーだった?
石田三成は関ヶ原の戦いでも中心人物となったため、現在では五奉行の中で圧倒的に知名度の高い人物です。
しかし、それだけを理由に「五奉行の最高責任者」「五奉行のトップ」と断定するのは適切ではありません。
五奉行は5人が連署した文書も残しており、それぞれが豊臣政権の実務を担う重要人物でした。