30秒でわかる姉川の戦い
越前の朝倉義景を攻めた織田信長が、義弟・浅井長政の裏切りで挟撃されかけた末に、体勢を立て直して浅井・朝倉連合軍と姉川で戦った合戦です。
織田軍は浅井軍に一時押し込まれますが、徳川家康が朝倉軍を破って側面を突いたことで勝敗が決しました。
勝ったものの浅井・朝倉は健在で、この後3年続く「信長包囲網」の入口になった戦いでもあります。
なぜ姉川の戦いは起きた?
1570年4月、信長は「上洛命令に従わない」ことを理由に越前の朝倉義景を攻めました。金ヶ崎まで進んだところで、妹・お市の方を嫁がせていた同盟者・浅井長政が離反します。
浅井氏は朝倉氏と代々の縁を持っており、信長との同盟時に「朝倉は攻めない」という約束があったとも伝わります(この約束の実在には議論があります)。
戦う直前の状況
金ヶ崎から命からがら京都へ戻った信長は、6月に態勢を立て直して近江へ出兵。浅井の本拠・小谷城を攻めますが堅く、平地へ誘い出すため支城の横山城を包囲しました。浅井・朝倉はこれを救うため出撃します。
兵力の数字は、軍記物に由来するものを含め史料によって大きく開きがあります。ここでは広く引かれている数値を挙げていますが、実数はこれより少なかったとする研究もあります。
戦いの後どうなった?
浅井・朝倉は本拠を保ち、比叡山や本願寺と結んで信長に抵抗を続けます(志賀の陣、比叡山焼き討ちへ)。
両氏が滅ぶのは3年後の1573年。小谷城で浅井長政が、一乗谷で朝倉義景が滅び、信長は近江・越前を手に入れました。
なぜこの戦いが重要なのか
勝敗そのものより、「信長がこの時点ではまだ包囲網を突破できていなかった」ことを示す戦いです。ここから3年、信長は各地の敵と同時に戦い続けることになります。