織田信長の家臣一覧|織田を支えた武将たち

織田信長

第六天魔王 — 織田の天下人

織田信長の家臣団は、出自を問わない登用で知られます。足軽から出た羽柴秀吉、他家から来た明智光秀、譜代の柴田勝家が同じ土俵で競い合いました。

信長は畿内を平定すると、方面ごとに軍団を編成し、大身の家臣に指揮権を委ねます。この方面軍制が急速な拡大を可能にした一方で、当主が死んだときの分裂も速めました。

織田信長の家臣団とは

織田家臣団の運用は、成果に対して極端でした。功があれば身分を問わず抜擢し、成果が出なければ譜代であっても追放します。長年仕えた佐久間信盛・林秀貞が1580年に追放されたのはその例です。

方面軍は、柴田勝家(北陸)、羽柴秀吉(中国)、明智光秀(丹波・近畿)、滝川一益(関東)、織田信孝・丹羽長秀(四国)という形で編成されました。それぞれが独立した軍事・行政の単位です。

この仕組みは、信長という中心があって初めて成り立つものでした。本能寺の変で中心が消えたとき、各軍団はそのまま独立した勢力として互いに争うことになります。

まず知っておきたい家臣

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家臣団はどう構成されていた?(全12人)

方面軍を率いた重臣5人

各方面の軍事と統治を任された大身の家臣。信長の死後、それぞれが後継争いの当事者になった。

古参の家臣2人

信長の尾張統一期から仕えた家臣。功と罰の基準は譜代にも等しく適用された。

側近・小姓衆2人

信長の身辺に仕えた者たち。本能寺で信長とともに討たれた者も多い。

水軍・専門技能で仕えた者1人

特定の技能によって織田の軍事を支えた。

同盟・従属した立場の人物2人

家臣というより、政治的な関係で織田の傘下にあった人々。

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この家臣団が戦った主な合戦

家臣団はその後どうなった?

本能寺の変で信長と信忠が同時に死ぬと、方面軍はそれぞれ独立した勢力として動き始めました。清洲会議で表面上の秩序は保たれますが、実質は後継争いの始まりです。

1583年の賤ヶ岳で柴田勝家が滅び、滝川一益は降伏。1584年の小牧・長久手を経て、織田信雄も秀吉に臣従します。

織田家臣団はそのまま豊臣政権の中核へ移行しました。加藤清正・福島正則ら次の世代も、多くが尾張・三河の出身です。

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