織田信長の家臣団は、出自を問わない登用で知られます。足軽から出た羽柴秀吉、他家から来た明智光秀、譜代の柴田勝家が同じ土俵で競い合いました。
信長は畿内を平定すると、方面ごとに軍団を編成し、大身の家臣に指揮権を委ねます。この方面軍制が急速な拡大を可能にした一方で、当主が死んだときの分裂も速めました。
織田信長の家臣団とは
織田家臣団の運用は、成果に対して極端でした。功があれば身分を問わず抜擢し、成果が出なければ譜代であっても追放します。長年仕えた佐久間信盛・林秀貞が1580年に追放されたのはその例です。
方面軍は、柴田勝家(北陸)、羽柴秀吉(中国)、明智光秀(丹波・近畿)、滝川一益(関東)、織田信孝・丹羽長秀(四国)という形で編成されました。それぞれが独立した軍事・行政の単位です。
この仕組みは、信長という中心があって初めて成り立つものでした。本能寺の変で中心が消えたとき、各軍団はそのまま独立した勢力として互いに争うことになります。
家臣団はその後どうなった?
本能寺の変で信長と信忠が同時に死ぬと、方面軍はそれぞれ独立した勢力として動き始めました。清洲会議で表面上の秩序は保たれますが、実質は後継争いの始まりです。
1583年の賤ヶ岳で柴田勝家が滅び、滝川一益は降伏。1584年の小牧・長久手を経て、織田信雄も秀吉に臣従します。
織田家臣団はそのまま豊臣政権の中核へ移行しました。加藤清正・福島正則ら次の世代も、多くが尾張・三河の出身です。