なぜ比叡山焼き討ちは起きた?
延暦寺は広大な荘園と僧兵を抱え、京都の政治にも影響力を持つ勢力でした。志賀の陣では信長の要求を拒み、浅井・朝倉に山を貸しています。
信長にとって延暦寺は、宗教的権威を盾に軍事行動を取る勢力であり、放置すれば背後を突かれ続ける相手でした。
戦う直前の状況
1571年9月、信長は近江へ出兵。まず坂本・堅田といった山麓の門前町を押さえ、山上への退路と補給を断ちました。
1571年9月|近江国・比叡山延暦寺
織田信長が比叡山延暦寺を包囲し、根本中堂をはじめとする堂塔を焼き払った事件です。
前年の志賀の陣で延暦寺が浅井・朝倉を匿ったことへの報復であり、同時に「寺社であっても軍事勢力なら討つ」という姿勢を示すものでした。
犠牲者は数千とも記されますが、発掘調査では山上全体が焼けた痕跡が確認されず、規模については再検討が進んでいます。
| 戦名 | 比叡山焼き討ち |
|---|---|
| 時期 | 1571年9月 |
| 場所 | 近江国・比叡山延暦寺 |
| 現在の場所 | 滋賀県大津市坂本本町(比叡山延暦寺) |
| 両軍 | 織田軍 vs 延暦寺 |
| 主な武将 | 織田信長、明智光秀 |
| 結果 | 織田軍による延暦寺壊滅 |
延暦寺は広大な荘園と僧兵を抱え、京都の政治にも影響力を持つ勢力でした。志賀の陣では信長の要求を拒み、浅井・朝倉に山を貸しています。
信長にとって延暦寺は、宗教的権威を盾に軍事行動を取る勢力であり、放置すれば背後を突かれ続ける相手でした。
1571年9月、信長は近江へ出兵。まず坂本・堅田といった山麓の門前町を押さえ、山上への退路と補給を断ちました。
軍事組織としての抵抗力は、包囲された時点でほとんど残っていなかった。
兵力の数字は、軍記物に由来するものを含め史料によって大きく開きがあります。ここでは広く引かれている数値を挙げていますが、実数はこれより少なかったとする研究もあります。
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1571年9月
延暦寺は事実上壊滅し、再興は豊臣秀吉・徳川家康の時代を待ちます。
この行動は諸大名に衝撃を与え、武田信玄が信長を「天台座主沙門」と皮肉る書状を送ったと伝わります。信長包囲網の結束を強める一因にもなりました。
明智光秀はこの戦功で近江志賀郡を与えられ、坂本城主として織田家中で地位を固めます。
中世を通じて武力を持ち続けた宗教勢力に、世俗権力が正面から実力行使をした事件です。この後、信長は本願寺・雑賀・高野山とも対決し、寺社勢力の武装解除が進んでいきます。
『信長公記』は徹底的な焼き討ちを記しますが、近年の発掘調査では該当時期の焼土層が限られた範囲でしか見つかっておらず、被害範囲は史料の記述より小さかったとする説があります。
比叡山焼き討ちは、1571年9月に近江国・比叡山延暦寺で行われた合戦です。織田信長・明智光秀が戦い、結果は織田軍による延暦寺壊滅でした。
比叡山焼き討ちは1571年9月に近江国・比叡山延暦寺(滋賀県大津市坂本本町(比叡山延暦寺))で起きました。
織田軍による延暦寺壊滅
織田信長、明智光秀が参戦しています。