30秒でわかる桶狭間の戦い
2万5千(諸説あり)を率いて尾張へ侵攻した今川義元を、織田信長が2千〜3千で急襲し、総大将の義元を討ち取った戦いです。
兵力差はおよそ10倍。信長は籠城案を退け、義元本隊の位置を掴んだ上で本陣一点に突撃しました。
尾張一国の領主だった信長の名が一気に知られ、東海道の勢力図が塗り替わります。徳川家康が今川から独立するきっかけにもなりました。
なぜ桶狭間の戦いは起きた?
今川義元は駿河・遠江・三河を押さえ、東海道最大の勢力になっていました。尾張との国境では鳴海城・大高城をめぐる小競り合いが続いています。
1560年5月、義元は大軍を率いて尾張へ進発します。上洛が目的だったとする通説に対し、近年は尾張の制圧が目的だったとする見方が有力です。
戦う直前の状況
織田方は鳴海・大高の周囲に砦を築いて対抗していましたが、今川軍はこれを次々に攻略。丸根砦・鷲津砦が落ち、清洲城の信長に残された時間はわずかでした。家臣の多くは籠城を主張したと伝わります。
兵力の数字は、軍記物に由来するものを含め史料によって大きく開きがあります。ここでは広く引かれている数値を挙げていますが、実数はこれより少なかったとする研究もあります。
戦いの後どうなった?
今川氏は当主を失って動揺し、三河の松平元康が岡崎城に戻って独立します。翌年には信長と清洲同盟を結び、以後20年にわたる織田・徳川の協力関係が始まりました。
信長は東の脅威が消えたことで美濃攻略に専念でき、1567年に稲葉山城を落として「天下布武」を掲げます。
なぜこの戦いが重要なのか
一つの合戦で大勢力が崩れ、無名だった領主が全国区になった例として突出しています。ここで生まれた織田・徳川の協力関係が、その後の天下統一の骨格になりました。