真田氏とは?本拠・当主・勢力の広がり

真田氏を30秒で

真田氏は信濃小県郡の国人で、真田幸隆が武田信玄に仕えたことから歴史の表舞台に出ます。

武田滅亡後、真田昌幸は織田・北条・徳川・上杉と主を次々に変えながら独立を保ちました。上田城で徳川軍を二度退けたことで知られます。

関ヶ原では信之が東軍、昌幸・信繁が西軍と親子で分かれました。真田信繁(幸村)は大坂の陣で徳川本陣に迫り、敵方の記録にも「日本一の兵」と記されています。

本拠と領域

信濃国(上田城)・上野国(沼田城)

歴代当主

  1. 真田幸隆のAI生成イメージ 真田幸隆 〜1574年 武田信玄に仕え、砥石城の攻略などで信濃先方衆として頭角を現した。
  2. 真田昌幸のAI生成イメージ 真田昌幸 1575年〜1611年 武田滅亡後に独立勢力として立ち回り、上田城で徳川軍を二度退けた。
  3. 真田信之のAI生成イメージ 真田信之 1600年〜1658年 東軍について家を残し、松代藩10万石の初代藩主となった。

どのように勢力を広げた?

真田氏の版図は小さく、上田と沼田を中心とする一帯にとどまります。勢力の実体は領地の広さではなく、大勢力の間で選択肢を持ち続けた立ち回りにありました。

上田城は千曲川の断崖と城下町を防御に組み込んだ設計で、少数で大軍を防ぐことを前提に作られています。第一次・第二次の上田合戦で実際に機能しました。

沼田領は上野の要衝で、徳川と北条の和睦条件でその帰属が問題になり、第一次上田合戦と小田原征伐の遠因にもなっています。

最盛期

1585年の第一次上田合戦から関ヶ原までが、独立勢力として最も存在感のあった時期です。豊臣政権下では大名として遇されました。

主要家臣

主な合戦

他勢力との関係

武田氏
幸隆・昌幸の代に仕えた主家。武田の戦い方と築城技術を受け継いだ。
徳川氏
上田城で二度戦った相手。関ヶ原後は信之が徳川方の大名となった。
豊臣氏
昌幸・信繁が属した。信繁は九度山配流を経て大坂城に入った。
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衰退・その後

関ヶ原で親子が東西に分かれたことにより、真田家は名跡を残すことができました。信之は上田、のちに松代へ移り、江戸時代を通じて藩主家として続きます。

西軍についた昌幸・信繁は紀伊九度山へ配流されました。昌幸はそこで没し、信繁は1614年に大坂城へ入って翌年の天王寺口で戦死します。

真田信繁が「幸村」の名で語られるようになるのは江戸時代の軍記物からで、本人が名乗った記録は確認されていません。

関連グループ

真田氏に属した武将(15人)

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