どのように勢力を広げた?
真田氏の版図は小さく、上田と沼田を中心とする一帯にとどまります。勢力の実体は領地の広さではなく、大勢力の間で選択肢を持ち続けた立ち回りにありました。
上田城は千曲川の断崖と城下町を防御に組み込んだ設計で、少数で大軍を防ぐことを前提に作られています。第一次・第二次の上田合戦で実際に機能しました。
沼田領は上野の要衝で、徳川と北条の和睦条件でその帰属が問題になり、第一次上田合戦と小田原征伐の遠因にもなっています。
真田氏は信濃小県郡の国人で、真田幸隆が武田信玄に仕えたことから歴史の表舞台に出ます。
武田滅亡後、真田昌幸は織田・北条・徳川・上杉と主を次々に変えながら独立を保ちました。上田城で徳川軍を二度退けたことで知られます。
関ヶ原では信之が東軍、昌幸・信繁が西軍と親子で分かれました。真田信繁(幸村)は大坂の陣で徳川本陣に迫り、敵方の記録にも「日本一の兵」と記されています。
信濃国(上田城)・上野国(沼田城)
真田幸隆
〜1574年
武田信玄に仕え、砥石城の攻略などで信濃先方衆として頭角を現した。
真田昌幸
1575年〜1611年
武田滅亡後に独立勢力として立ち回り、上田城で徳川軍を二度退けた。
真田信之
1600年〜1658年
東軍について家を残し、松代藩10万石の初代藩主となった。
真田氏の版図は小さく、上田と沼田を中心とする一帯にとどまります。勢力の実体は領地の広さではなく、大勢力の間で選択肢を持ち続けた立ち回りにありました。
上田城は千曲川の断崖と城下町を防御に組み込んだ設計で、少数で大軍を防ぐことを前提に作られています。第一次・第二次の上田合戦で実際に機能しました。
沼田領は上野の要衝で、徳川と北条の和睦条件でその帰属が問題になり、第一次上田合戦と小田原征伐の遠因にもなっています。
1585年の第一次上田合戦から関ヶ原までが、独立勢力として最も存在感のあった時期です。豊臣政権下では大名として遇されました。
1553年〜1564年
信濃国・川中島
1582年6月〜10月
甲斐国・信濃国
1585年閏8月
信濃国・上田城
1590年
相模国・小田原城
1600年9月
信濃国・上田城
1600年9月15日
美濃国・関ヶ原
関ヶ原で親子が東西に分かれたことにより、真田家は名跡を残すことができました。信之は上田、のちに松代へ移り、江戸時代を通じて藩主家として続きます。
西軍についた昌幸・信繁は紀伊九度山へ配流されました。昌幸はそこで没し、信繁は1614年に大坂城へ入って翌年の天王寺口で戦死します。
真田信繁が「幸村」の名で語られるようになるのは江戸時代の軍記物からで、本人が名乗った記録は確認されていません。

日本一の兵

表裏比興の者

甲賀の忍

天下を飾る者

伊賀の忍

幸村の嫡男

怪力の僧兵

幸村の影武者

清海の弟

真田の嫡男

鎖鎌の達人

鉄砲の名手

真田の諜報員

海賊上がりの豪傑

火術の名人