なぜ第一次上田合戦は起きた?
天正壬午の乱の和睦で、徳川家康は上野沼田領を北条氏へ渡すことを約束しました。しかし沼田を実際に支配していたのは真田昌幸です。
昌幸は「沼田は自分が切り取った土地であり、家康から与えられたものではない」として引き渡しを拒否。徳川から離れて上杉景勝に属しました。
戦う直前の状況
上田城は千曲川と尼ヶ淵の断崖を背にし、城下町そのものが防御構造に組み込まれていました。昌幸は徳川軍を城下深くまで誘い込む前提で守りを準備します。
1585年閏8月|信濃国・上田城
沼田領の引き渡しを拒んだ真田昌幸を、徳川家康が7千余で攻めた戦いです。真田方の兵は2千に満たなかったとされます。
昌幸は上田城へ徳川軍を引き込み、城下の仕掛けと伏兵、千曲川の増水を使って撃退しました。
兵力差3倍以上を覆した戦いとして、真田の名を全国に知らしめます。
| 戦名 | 第一次上田合戦 |
|---|---|
| 時期 | 1585年閏8月 |
| 場所 | 信濃国・上田城 |
| 現在の場所 | 長野県上田市(上田城跡公園・神川周辺) |
| 両軍 | 徳川軍 vs 真田軍 |
| 主な武将 | 真田昌幸、徳川家康、真田信之、大久保忠世 |
| 結果 | 真田軍の勝利 |
天正壬午の乱の和睦で、徳川家康は上野沼田領を北条氏へ渡すことを約束しました。しかし沼田を実際に支配していたのは真田昌幸です。
昌幸は「沼田は自分が切り取った土地であり、家康から与えられたものではない」として引き渡しを拒否。徳川から離れて上杉景勝に属しました。
上田城は千曲川と尼ヶ淵の断崖を背にし、城下町そのものが防御構造に組み込まれていました。昌幸は徳川軍を城下深くまで誘い込む前提で守りを準備します。
兵力の数字は、軍記物に由来するものを含め史料によって大きく開きがあります。ここでは広く引かれている数値を挙げていますが、実数はこれより少なかったとする研究もあります。
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誰がどこで動き、どの勢力がぶつかったのか。参戦武将をタップしながら、戦いの流れと人物のつながりを追えます。
1585年閏8月
真田昌幸
偽りの退却で敵を城下に誘い込み、伏兵と二の丸からの挟撃で大打撃を与える。
徳川家康
鳥居元忠・大久保忠世ら歴戦の将を派遣するも、真田の策に翻弄される。
真田信之
父と共に防戦し、徳川軍の撃退に貢献。
大久保忠世
徳川軍の指揮官として参戦するも、真田の巧みな用兵に翻弄され敗退。
家康は秀吉との関係を優先し、上田攻めを中止します。真田氏は豊臣大名として独立した地位を得ました。
1600年、関ヶ原に向かう徳川秀忠軍3万8千を昌幸が再び上田城で足止めし、秀忠は決戦に間に合いませんでした(第二次上田合戦)。
小勢力が地形と築城で大勢力を退けた代表例です。この一戦で真田氏は「徳川に二度勝った家」として記憶され、大坂の陣での真田信繁の名声にもつながっていきます。
1600年9月
信濃国・上田城
1582年6月〜10月
甲斐国・信濃国
1600年9月15日
美濃国・関ヶ原
1614年〜1615年
摂津国・大坂城
第一次上田合戦は、1585年閏8月に信濃国・上田城で行われた合戦です。真田昌幸・徳川家康・真田信之・大久保忠世が戦い、結果は真田軍の勝利でした。
第一次上田合戦は1585年閏8月に信濃国・上田城(長野県上田市(上田城跡公園・神川周辺))で起きました。
真田軍の勝利
真田昌幸、徳川家康、真田信之、大久保忠世が参戦しています。