徳川家康の家臣団とは
徳川家臣団の特徴は、譜代の忠誠と、外様の能力を分けて使ったことにあります。
軍事の中核は三河譜代が担いました。一方、武田の遺臣は井伊直政に付けられて「赤備え」となり、武田の戦い方と築城技術がそのまま徳川軍に引き継がれます。
行政面では、本多正信のように一度出奔して戻った者や、旧敵方の実務家も登用されました。関東移封後の江戸の町割り・治水では、こうした人材が働いています。
東照大権現 — 徳川の天下人
徳川家康の家臣団は、三河以来の譜代を核とし、そこへ旧武田・旧今川・旧北条の遺臣を組み込んで作られました。
三河譜代の結束は「三河武士」と呼ばれるほど強く、家康が三方ヶ原の大敗や伊賀越えを生き延びられたのはこの層があったためです。
「徳川四天王」(酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政)という括りが知られますが、これも後世にまとめられた呼称です。
徳川家臣団の特徴は、譜代の忠誠と、外様の能力を分けて使ったことにあります。
軍事の中核は三河譜代が担いました。一方、武田の遺臣は井伊直政に付けられて「赤備え」となり、武田の戦い方と築城技術がそのまま徳川軍に引き継がれます。
行政面では、本多正信のように一度出奔して戻った者や、旧敵方の実務家も登用されました。関東移封後の江戸の町割り・治水では、こうした人材が働いています。

海老すくいの名手
四天王の筆頭格で最年長。長篠では鳶ヶ巣山砦の奇襲を献策・実行し、武田軍の背後を突いた。

戦国最強の武将
生涯57回の合戦で傷ひとつ負わなかったと伝わる。小牧・長久手では少数で秀吉の大軍の前に立ち、その勇を秀吉に評価された。

赤鬼
武田の遺臣を預けられ「井伊の赤備え」を率いた。外交でも働き、関ヶ原後の島津との交渉に関わった。

三河武士の鑑
関ヶ原の直前、伏見城で1800の兵とともに1か月近く西軍を足止めし、全滅した。この時間が家康の勝利の前提になった。

家康の知恵袋
一向一揆で家康と敵対し出奔したが、のちに帰参。江戸幕府の政策立案に関わった。

女地頭
井伊家の当主が相次いで死んだ後、女性の身で家を保ち、直政を育てた。
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徳川家康の関係図をアプリで見る後世に「徳川四天王」と呼ばれた4人。軍事の中核を担った。

海老すくいの名手
徳川四天王の筆頭格。長篠の戦いでは鳶ヶ巣山砦への奇襲を成功させ、勝利の鍵を握った。

戦国最強の武将
徳川四天王の一人。57回の合戦で一度も傷を負わなかったと伝わる。

徳川四天王の一人。小牧・長久手の戦いでは秀吉軍の背後を突く別働隊を率い、大勝に貢献。

赤鬼
徳川四天王の一人。「井伊の赤備え」を率い、赤い甲冑で統一した精鋭部隊は戦場で恐れられた。
松平家の時代から仕えた家。人質時代から家康を支え続けた層。

三河武士の鑑
徳川家康の古参の家臣。関ヶ原の前哨戦で伏見城を預かり、西軍4万の大軍に対しわずか1800の兵で10日以上の籠城戦を展開。

七郎右衛門
徳川家康の古参の家臣で、三方ヶ原・長篠など主要な戦いに参加した歴戦の将。第一次上田合戦では徳川軍の指揮官の一人として派遣されるも、真田昌幸の巧みな策に翻弄された。
戦場よりも交渉と統治で家康を支えた。
遠江井伊谷の井伊家。直虎が家を守り、直政が武田の遺臣を率いる「赤備え」を任された。
徳川に仕えたのち、独立した大名として取り立てられた人々。
1560年5月
尾張国・桶狭間
1570年4月
越前国・金ヶ崎
1570年6月
近江国・姉川
元亀3年12月(1573年1月)
遠江国・三方ヶ原
1575年5月
三河国・長篠
1582年6月〜10月
甲斐国・信濃国
関ヶ原の後、徳川家臣団はそのまま江戸幕府の統治機構へ移行しました。譜代大名として全国の要地に配置され、外様大名を牽制する役割を担います。
井伊家は彦根に置かれ、譜代筆頭として幕末まで大老を出し続けました。本多・榊原・酒井の各家も譜代大名として存続します。
戦国大名の家臣団がそのまま近世の統治機構になった例は、徳川以外にありません。