徳川四天王の4人
岡崎や浜松など、家康ゆかりの地域でもこの4人が徳川四天王として紹介されています。

本多忠勝
戦国最強の武将
徳川四天王の一人。57回の合戦で一度も傷を負わなかったと伝わる。

榊原康政
徳川四天王の一人。小牧・長久手の戦いでは秀吉軍の背後を突く別働隊を率い、大勝に貢献。

井伊直政
赤鬼
徳川四天王の一人。「井伊の赤備え」を率い、赤い甲冑で統一した精鋭部隊は戦場で恐れられた。

酒井忠次
海老すくいの名手
徳川四天王の筆頭格。長篠の戦いでは鳶ヶ巣山砦への奇襲を成功させ、勝利の鍵を握った。
4人は何をした?
徳川四天王は、単純に「徳川軍で最も強かった4人」というだけのグループではありません。
酒井忠次は家康より年長で、家康の父・松平広忠の時代から松平家に仕えた古参の家臣でした。家康が三河をまとめる時期には、東三河の家臣団を率いる重要な立場を任されています。
本多忠勝は、家康の主要な合戦に参加した武将として知られています。「蜻蛉切」と呼ばれる槍でも有名で、家康の軍事面を象徴する家臣の一人です。
榊原康政も家康の勢力拡大を支えた重臣で、1590年に家康が関東へ移ると館林を与えられました。
井伊直政は4人の中では家康に仕えた時期が遅く、最年少でした。しかし急速に頭角を現し、武田氏の旧臣などを取り込んだ赤備えを率いるようになります。「井伊の赤備え」は、直政を代表する存在として知られています。
このように、四天王は世代や経歴、家康を支えた方法もそれぞれ異なっていました。
4人は最初から「四天王」だった?
4人が最初から同じ地位で家康を支えていたわけではありません。
酒井忠次は家康以前の松平家から仕えた古参でしたが、井伊直政が家康に仕えたのは1570年代です。
家康が三河・遠江から甲斐・信濃、さらに関東へと勢力を拡大していく長い過程の中で、それぞれの武将が重要な役割を担いました。
後世からその生涯を振り返ったとき、家康を代表する4人の功臣として「徳川四天王」という呼び方が定着したと考えると分かりやすいでしょう。