徳川四天王とは?
家康の天下取りを支えた4人の名将

徳川四天王とは、徳川家康を支えた酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の4人を指す呼称です。

4人はそれぞれ異なる時期や立場から家康を支え、三河の一大名だった徳川家が勢力を広げていく過程で大きな役割を果たしました。

「四天王」という言葉から4人が同じ役職に就いていたようにも見えますが、「徳川四天王」という名前の役職が徳川家に設けられていたわけではありません。家康を代表する功臣たちを後世にまとめて呼ぶようになったものです。

徳川四天王の4人

岡崎や浜松など、家康ゆかりの地域でもこの4人が徳川四天王として紹介されています。

4人は何をした?

徳川四天王は、単純に「徳川軍で最も強かった4人」というだけのグループではありません。

酒井忠次は家康より年長で、家康の父・松平広忠の時代から松平家に仕えた古参の家臣でした。家康が三河をまとめる時期には、東三河の家臣団を率いる重要な立場を任されています。

本多忠勝は、家康の主要な合戦に参加した武将として知られています。「蜻蛉切」と呼ばれる槍でも有名で、家康の軍事面を象徴する家臣の一人です。

榊原康政も家康の勢力拡大を支えた重臣で、1590年に家康が関東へ移ると館林を与えられました。

井伊直政は4人の中では家康に仕えた時期が遅く、最年少でした。しかし急速に頭角を現し、武田氏の旧臣などを取り込んだ赤備えを率いるようになります。「井伊の赤備え」は、直政を代表する存在として知られています。

このように、四天王は世代や経歴、家康を支えた方法もそれぞれ異なっていました。

4人は最初から「四天王」だった?

4人が最初から同じ地位で家康を支えていたわけではありません。

酒井忠次は家康以前の松平家から仕えた古参でしたが、井伊直政が家康に仕えたのは1570年代です。

家康が三河・遠江から甲斐・信濃、さらに関東へと勢力を拡大していく長い過程の中で、それぞれの武将が重要な役割を担いました。

後世からその生涯を振り返ったとき、家康を代表する4人の功臣として「徳川四天王」という呼び方が定着したと考えると分かりやすいでしょう。

参考資料

  • 岡崎市観光協会「家康を支えた三河譜代の四天王」外部サイト
  • 浜松・浜名湖ツーリズムビューロー「浜松時代の周囲の人物」
  • 岡崎城公園「徳川十六将」

APP グループページの次へ

徳川四天王の顔ぶれを見たら、一人ずつの物語へ。

グループの構成を見たあと、アプリでは各武将の詳細や関係、登場合戦までそのまま深掘りできます。

  • 顔ぶれから個別へ
  • 214人の武将
  • 44件の合戦
  • オフライン対応
徳川四天王をアプリでたどる Google Play で入手