30秒でわかる大坂の陣
徳川家康が豊臣秀頼の大坂城を攻めた冬(1614年)と夏(1615年)の二度の陣です。
冬の陣では真田信繁が築いた出丸「真田丸」が徳川軍を退けましたが、和議の条件として堀を埋められ、大坂城は裸城になりました。
翌年の夏の陣で豊臣方は野戦に出るしかなくなり、秀頼と淀殿が自害して豊臣家は滅亡します。戦国時代の最後の戦いです。
なぜ大坂の陣は起きた?
関ヶ原の後も豊臣秀頼は摂津・河内・和泉65万石の大名として大坂城にあり、諸大名にとって秀吉の遺児という特別な存在でした。
1614年、豊臣家が再建した方広寺の鐘銘「国家安康」「君臣豊楽」が家康の名を分断し豊臣の繁栄を願うものだと問題視されます(方広寺鐘銘事件)。これが開戦の口実になりました。
戦う直前の状況
大坂城は秀吉が築いた当時最強の城でした。豊臣方は全国の浪人を集め、真田信繁・後藤又兵衛・長宗我部盛親・毛利勝永・明石全登(後世「大坂五人衆」と呼ばれる)らが入城します。ただし大名で味方した者はいませんでした。
兵力の数字は、軍記物に由来するものを含め史料によって大きく開きがあります。ここでは広く引かれている数値を挙げていますが、実数はこれより少なかったとする研究もあります。
戦いの後どうなった?
豊臣家が滅び、徳川に対抗しうる勢力は国内から消えました。
同1615年、幕府は一国一城令と武家諸法度を発布し、大名の軍事力と行動を制度的に縛ります。
「元和偃武」——武器を収めるという意味の言葉が使われ、応仁の乱から約150年続いた戦乱の時代が終わりました。
なぜこの戦いが重要なのか
戦国時代の終わりを画す戦いです。以後、大規模な内戦は島原の乱(1637年)を除いて幕末まで起きません。真田信繁の最期は「日本一の兵(つわもの)」と敵方の記録にも記され、戦国という時代の締めくくりとして語り継がれました。