長宗我部氏とは?本拠・当主・勢力の広がり

長宗我部氏を30秒で

長宗我部氏は土佐岡豊城の国人でした。元親の代に土佐七雄と呼ばれる国人たちを従え、土佐一国を統一します。

一領具足という、普段は農業に従事し有事に自弁で武装する兵制によって高い動員力を持ち、阿波・讃岐・伊予へ進出して四国をほぼ手中にしました。

しかし1585年、豊臣秀吉の四国征伐で降伏し、土佐一国のみを安堵されます。関ヶ原で西軍についた盛親の代に改易されました。

本拠と領域

土佐国(岡豊城→浦戸城)

歴代当主

  1. 長宗我部国親 〜1560年 一度没落した家を再興し、土佐中部へ勢力を広げた。
  2. 長宗我部元親のAI生成イメージ 長宗我部元親 1560年〜1599年 四国をほぼ統一。豊臣に降ったのち、九州・朝鮮に従軍した。
  3. 長宗我部盛親のAI生成イメージ 長宗我部盛親 1599年〜1615年 関ヶ原で西軍につき改易。大坂の陣に参加し、戦後に処刑された。

どのように勢力を広げた?

一領具足は動員コストが低く、急速な拡大を支えました。ただし専業の兵ではないため、遠征が長引くほど負担が大きくなる仕組みでもあります。

元親は土佐統一後、阿波の三好氏を破り、讃岐・伊予へ進出しました。1585年春には四国のほぼ全域に及びます。

最盛期

1585年春が最大版図です。四国四か国のほぼ全域を押さえた直後に、豊臣の10万余が三方から上陸しました。

主な合戦

他勢力との関係

三好氏
阿波の旧主。元親の進出により阿波から駆逐された。
織田氏
当初は友好関係だったが、四国政策の転換で対立。本能寺の変の動機に絡めて論じられることもある。
豊臣氏
四国征伐で降伏し、土佐一国を安堵された。九州征伐で嫡男・信親を失った。
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衰退・その後

1586年の戸次川の戦いで嫡男・信親を失ったことが、家中の混乱の始まりでした。後継をめぐる争いで有力家臣が粛清されます。

関ヶ原で盛親が西軍につき、戦後に改易。土佐は山内一豊へ与えられました。

盛親は大坂の陣で豊臣方として戦い、敗戦後に処刑されます。旧臣の一領具足は土佐藩で郷士という身分に置かれました。

長宗我部氏に属した武将(3人)

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