なぜ九戸政実の乱は起きた?
南部氏では当主・晴政の死後に家督争いが続き、一族の九戸政実は本家を継いだ南部信直に従いませんでした。
1590年の奥州仕置で秀吉が信直を南部の当主として公認したため、政実の立場は「私戦」ではなく「豊臣政権への反逆」と位置づけられます。
戦う直前の状況
同時期、奥州仕置に反発した葛西大崎一揆・和賀稗貫一揆が起きており、豊臣政権は奥州の再仕置を決めました。九戸攻めはその総仕上げにあたります。
1591年9月|陸奥国・九戸城
南部氏の家督争いから、九戸政実が本家の南部信直に反旗を翻した戦いです。豊臣秀吉は6万余の奥州再仕置軍を差し向けました。
九戸城は5千で堅く守りますが、豊臣方は「城兵の助命」を条件に開城させ、約束を反故にして城内の者を処断したと伝わります。
この鎮圧をもって、秀吉による全国統一が完了しました。戦国時代最後の本格的な合戦とされます。
| 戦名 | 九戸政実の乱 |
|---|---|
| 時期 | 1591年9月 |
| 場所 | 陸奥国・九戸城 |
| 現在の場所 | 岩手県二戸市福岡(九戸城跡) |
| 両軍 | 豊臣軍(奥州再仕置軍) vs 九戸軍 |
| 主な武将 | 南部信直、蒲生氏郷 |
| 結果 | 豊臣軍の勝利(九戸氏滅亡) |
南部氏では当主・晴政の死後に家督争いが続き、一族の九戸政実は本家を継いだ南部信直に従いませんでした。
1590年の奥州仕置で秀吉が信直を南部の当主として公認したため、政実の立場は「私戦」ではなく「豊臣政権への反逆」と位置づけられます。
同時期、奥州仕置に反発した葛西大崎一揆・和賀稗貫一揆が起きており、豊臣政権は奥州の再仕置を決めました。九戸攻めはその総仕上げにあたります。
奥州の諸大名を動員し、豊臣政権への服従を確認する意味も持った。
兵力の数字は、軍記物に由来するものを含め史料によって大きく開きがあります。ここでは広く引かれている数値を挙げていますが、実数はこれより少なかったとする研究もあります。
アプリで体験 布陣と武将の動きを図解
誰がどこで動き、どの勢力がぶつかったのか。参戦武将をタップしながら、戦いの流れと人物のつながりを追えます。
1591年9月
南部信直の家督が確定し、奥州の大名は豊臣政権の秩序に組み込まれました。
この鎮圧をもって、応仁の乱から約124年続いた全国的な戦乱が終息します。翌1592年から秀吉は朝鮮出兵に踏み切りました。
戦国時代の終着点にあたる戦いです。国内で自力救済によって領地を争う時代が終わり、中央政権が大名の地位を決める時代に切り替わりました。
九戸政実の乱は、1591年9月に陸奥国・九戸城で行われた合戦です。南部信直・蒲生氏郷が戦い、結果は豊臣軍の勝利(九戸氏滅亡)でした。
九戸政実の乱は1591年9月に陸奥国・九戸城(岩手県二戸市福岡(九戸城跡))で起きました。
豊臣軍の勝利(九戸氏滅亡)
南部信直、蒲生氏郷が参戦しています。