どのように勢力を広げた?
今川氏の強みは、守護大名としての権威と、分国法・検地による領国経営の両立にありました。太原雪斎という僧が軍事・外交の両面で義元を支えたことも大きな要素です。
甲相駿三国同盟によって北と東の安全を確保し、西の尾張へ向かうことができました。
今川氏は足利氏の一門で、駿河守護を代々務めた名門です。義元の代に駿河・遠江・三河を押さえ、東海道最大の勢力になりました。
分国法『今川仮名目録』を定め、駿府には京の文化人が集まって「東の京」と呼ばれるほど栄えたと伝わります。
1560年の桶狭間で義元が討たれると、三河の松平氏が独立し、武田信玄の駿河侵攻によって短期間で滅びました。
駿河国(駿府館)
今川義元
1536年〜1560年
花倉の乱を経て家督を継ぎ、三河まで支配下に置いた。桶狭間で討死。
今川氏真
1560年〜1569年
義元の子。家臣の離反と武田・徳川の侵攻で領国を失った。
今川氏の強みは、守護大名としての権威と、分国法・検地による領国経営の両立にありました。太原雪斎という僧が軍事・外交の両面で義元を支えたことも大きな要素です。
甲相駿三国同盟によって北と東の安全を確保し、西の尾張へ向かうことができました。
1550年代後半が最盛期です。駿河・遠江・三河の三国を押さえ、尾張の一部にも勢力を及ぼしていました。
桶狭間で義元と多くの重臣を一度に失ったことが決定的でした。当主が急に代わり、支配下の国人が離反していきます。
1568年に武田信玄が駿河へ侵攻し、氏真は掛川城へ逃れて徳川家康に降伏。戦国大名としての今川氏は滅びました。
氏真自身は生き延び、和歌や蹴鞠に通じた文化人として徳川のもとで過ごしています。子孫は高家として江戸幕府に仕えました。