今川氏とは?本拠・当主・勢力の広がり

今川氏を30秒で

今川氏は足利氏の一門で、駿河守護を代々務めた名門です。義元の代に駿河・遠江・三河を押さえ、東海道最大の勢力になりました。

分国法『今川仮名目録』を定め、駿府には京の文化人が集まって「東の京」と呼ばれるほど栄えたと伝わります。

1560年の桶狭間で義元が討たれると、三河の松平氏が独立し、武田信玄の駿河侵攻によって短期間で滅びました。

本拠と領域

駿河国(駿府館)

歴代当主

  1. 今川氏親 〜1526年 『今川仮名目録』を定め、遠江を平定した。
  2. 今川義元のAI生成イメージ 今川義元 1536年〜1560年 花倉の乱を経て家督を継ぎ、三河まで支配下に置いた。桶狭間で討死。
  3. 今川氏真のAI生成イメージ 今川氏真 1560年〜1569年 義元の子。家臣の離反と武田・徳川の侵攻で領国を失った。

どのように勢力を広げた?

今川氏の強みは、守護大名としての権威と、分国法・検地による領国経営の両立にありました。太原雪斎という僧が軍事・外交の両面で義元を支えたことも大きな要素です。

甲相駿三国同盟によって北と東の安全を確保し、西の尾張へ向かうことができました。

最盛期

1550年代後半が最盛期です。駿河・遠江・三河の三国を押さえ、尾張の一部にも勢力を及ぼしていました。

主な合戦

他勢力との関係

武田氏・北条氏
甲相駿三国同盟の相手。義元の死後、武田信玄に駿河へ侵攻された。
松平氏(徳川氏)
三河を従属させ、家康を人質としていた。桶狭間の後に独立された。
織田氏
尾張をめぐって争い、桶狭間で当主を失った。
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衰退・その後

桶狭間で義元と多くの重臣を一度に失ったことが決定的でした。当主が急に代わり、支配下の国人が離反していきます。

1568年に武田信玄が駿河へ侵攻し、氏真は掛川城へ逃れて徳川家康に降伏。戦国大名としての今川氏は滅びました。

氏真自身は生き延び、和歌や蹴鞠に通じた文化人として徳川のもとで過ごしています。子孫は高家として江戸幕府に仕えました。

今川氏に属した武将(4人)

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