どのように勢力を広げた?
戦国期の細川家(藤孝の系統)は、領地の拡大より「どこに仕えるかの判断」で家を保った例です。本能寺の変では、娘婿の関係にあった明智光秀に与せず中立を守りました。
藤孝は和歌の伝統である古今伝授の継承者でもあり、関ヶ原の際に田辺城で包囲されたときは、朝廷が伝授の断絶を恐れて講和を仲介しています。
細川氏は足利一門で、室町幕府の管領を務めた名門です。応仁の乱では細川勝元が東軍の総大将を務めました。
戦国期には細川政元の後継争い(両細川の乱)で分裂し、家臣の三好長慶に実権を奪われます。
細川藤孝(幽斎)は足利義昭に仕えたのち織田信長へ移り、丹後を与えられました。和歌・古今伝授の継承者としても知られ、政治と文化の両面で家を残します。
山城国・丹後国(宮津城)
細川藤孝(幽斎)
〜1610年
足利義昭・信長・秀吉・家康に仕えた。古今伝授の継承者。
細川忠興
〜1645年
藤孝の子。関ヶ原で東軍につき、のちに小倉、さらに熊本54万石を得た。
戦国期の細川家(藤孝の系統)は、領地の拡大より「どこに仕えるかの判断」で家を保った例です。本能寺の変では、娘婿の関係にあった明智光秀に与せず中立を守りました。
藤孝は和歌の伝統である古今伝授の継承者でもあり、関ヶ原の際に田辺城で包囲されたときは、朝廷が伝授の断絶を恐れて講和を仲介しています。
江戸時代の熊本54万石が最大です。戦国期を通じて領地は大きくありませんでした。
細川氏は衰退していません。管領家としての権勢は失いましたが、藤孝の系統が肥後熊本藩主として幕末まで続きました。
本能寺の変での中立、関ヶ原での東軍参加という二度の判断が、家の存続を決めています。