細川氏とは?本拠・当主・勢力の広がり

細川氏を30秒で

細川氏は足利一門で、室町幕府の管領を務めた名門です。応仁の乱では細川勝元が東軍の総大将を務めました。

戦国期には細川政元の後継争い(両細川の乱)で分裂し、家臣の三好長慶に実権を奪われます。

細川藤孝(幽斎)は足利義昭に仕えたのち織田信長へ移り、丹後を与えられました。和歌・古今伝授の継承者としても知られ、政治と文化の両面で家を残します。

本拠と領域

山城国・丹後国(宮津城)

歴代当主

  1. 細川勝元 〜1473年 応仁の乱の東軍総大将。管領を務めた。
  2. 細川藤孝(幽斎)のAI生成イメージ 細川藤孝(幽斎) 〜1610年 足利義昭・信長・秀吉・家康に仕えた。古今伝授の継承者。
  3. 細川忠興のAI生成イメージ 細川忠興 〜1645年 藤孝の子。関ヶ原で東軍につき、のちに小倉、さらに熊本54万石を得た。

どのように勢力を広げた?

戦国期の細川家(藤孝の系統)は、領地の拡大より「どこに仕えるかの判断」で家を保った例です。本能寺の変では、娘婿の関係にあった明智光秀に与せず中立を守りました。

藤孝は和歌の伝統である古今伝授の継承者でもあり、関ヶ原の際に田辺城で包囲されたときは、朝廷が伝授の断絶を恐れて講和を仲介しています。

最盛期

江戸時代の熊本54万石が最大です。戦国期を通じて領地は大きくありませんでした。

主な合戦

他勢力との関係

足利将軍家
一門として仕えた。藤孝は義昭の上洛を支えたが、のちに信長へ移った。
明智光秀
忠興の妻・ガラシャは光秀の娘。本能寺の変では味方せず、光秀の孤立を決定づけた。
徳川氏
関ヶ原で東軍につき、以後は肥後熊本藩主として続いた。
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衰退・その後

細川氏は衰退していません。管領家としての権勢は失いましたが、藤孝の系統が肥後熊本藩主として幕末まで続きました。

本能寺の変での中立、関ヶ原での東軍参加という二度の判断が、家の存続を決めています。

細川氏に属した武将(2人)

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