どのように勢力を広げた?
戦国期の将軍家に領国拡大はありません。将軍の力は、官位の授与や大名間の調停といった「権威」にありました。
義輝は諸大名の争いを調停し、上杉・武田・毛利らと書状を交わして将軍の存在感を保とうとしています。
義昭は信長と対立した後、諸大名へ御内書を送って包囲網を形成しました。武田信玄の西上作戦もこの呼びかけに応じたものです。
足利氏は室町幕府の将軍家です。応仁の乱以降、将軍の権威は落ち、細川・三好といった実力者に擁立されたり追われたりを繰り返しました。
13代・義輝は自ら剣を取って三好三人衆・松永勢と戦い、討たれました。弟の義昭は織田信長に擁されて15代将軍となります。
義昭は信長と対立して各地の大名に呼びかけ「信長包囲網」を作りますが、1573年に京都を追われました。室町幕府はここで事実上終わります。
山城国(花の御所・二条御所)
戦国期の将軍家に領国拡大はありません。将軍の力は、官位の授与や大名間の調停といった「権威」にありました。
義輝は諸大名の争いを調停し、上杉・武田・毛利らと書状を交わして将軍の存在感を保とうとしています。
義昭は信長と対立した後、諸大名へ御内書を送って包囲網を形成しました。武田信玄の西上作戦もこの呼びかけに応じたものです。
義輝の時代、1560年前後が戦国期における将軍の権威が最も機能した時期とされます。
1573年、信長に京都を追われた義昭は毛利領の鞆へ移り、そこで将軍として振る舞い続けました(鞆幕府と呼ばれることがあります)。
1588年、義昭は正式に将軍職を辞し、豊臣秀吉のもとで大名並みの待遇を受けて余生を過ごしました。
足利将軍家の血統は、喜連川氏として江戸時代も存続します。