飫肥城とは
飫肥城は日向国南部(現在の宮崎県日南市)に築かれた城で、南北朝時代に土持氏が築いたのが始まりと伝えられる。日向を南下しようとする伊東氏と、これを防ごうとする島津氏の勢力がぶつかる最前線に位置したため、15世紀半ばから約100年以上にわたり両氏の争奪戦の舞台となった「飫肥百年合戦」の中心地として知られる。
1458年(長禄2年)頃、島津氏は庶流の新納忠続を飫肥城に配置して伊東氏の南下に備えたが、伊東氏は1484年(文明16年)以降たびたび飫肥へ侵攻を繰り返した。長い攻防の末に伊東義祐が飫肥城を奪取して伊東氏の支配下に置いたが、1577年(天正5年)、島津義久・島津忠長ら島津勢による日向侵攻が本格化すると義祐は豊後の大友宗麟を頼って逃れ、飫肥城は島津氏の支配下に入った。その後、1587年の豊臣秀吉による九州平定を経て、島津氏に代わり伊東義祐の子・祐兵が飫肥城主として返り咲き、以後は伊東氏の居城・飫肥藩庁として明治維新まで続いた。
南北朝時代
土持氏が飫肥城を築城したと伝わる(築城年代には諸説あり)
1458年頃(長禄2年)
島津氏庶流の新納忠続が飫肥城に入り、伊東氏の南下に備える
1484年(文明16年)
伊東祐国が飫肥へ侵攻するも戦死。以後、伊東氏による断続的な飫肥侵攻が続く
1577年(天正5年)
島津義久・島津忠長ら島津勢の攻勢により伊東義祐が日向を追われ、飫肥城は島津氏の支配下に入る
1578年(天正6年)
耳川の戦いで島津方が大友氏を破り、島津氏の日向支配が確立する
1587年(天正15年)
豊臣秀吉の九州平定により島津氏が降伏。伊東祐兵は秀吉軍の先導役を務める
1588年(天正16年)
伊東祐兵が飫肥城主として返り咲き、以後伊東氏5万7千石の居城となる
1873年(明治6年)
廃城となり城内建物は取り壊される
1978年(昭和53年)
大手門が復元される
1577年の飫肥城陥落を直接指揮したのは島津義弘の兄弟である島津忠長とされるが、義弘自身も木崎原の戦いや高原城攻略など日向侵攻の一連の戦いで中心的役割を果たし、飫肥の防備を固めた武将としても知られる。義弘を飫肥城の元来の城主とみなす表現は誤りであるため注意。