加治木館

義弘入居 1607年(慶長12年)

城名加治木館(加治木島津屋形)
所在地鹿児島県姶良市加治木町(大隅国)
築造1603年(慶長8年)頃、明国出身の風水家・江夏友賢の設計とされる
主な居住者島津義弘(隠居後の居所)
現状屋形跡地は小学校・高校の敷地となり、加治木護国神社に「島津義弘公終焉之地」の碑が残る

加治木館とは

加治木館は大隅国加治木(現在の鹿児島県姶良市加治木町)にあった屋敷で、関ヶ原の戦いで「島津の退き口」として知られる勇将・島津義弘が晩年を過ごした隠居所である。背後の加治木城を詰城としつつ、麓に整えられたこの居館で義弘は最晩年の日々を送った。

館は1603年(慶長8年)頃、明国から渡来した風水家・江夏友賢の設計によって整えられたと伝えられ、1607年(慶長12年)に義弘がここに移り住んだ。義弘は加治木で若者の教育などに力を注ぎながら余生を送り、1619年(元和5年)に85歳で没した。その死に際しては13名の家臣が殉死したと伝えられる。以後、加治木は島津氏の分家である加治木島津家の所領として江戸時代を通じて統治された。

1603年頃(慶長8年) 明人風水家・江夏友賢の設計により加治木島津屋形(加治木館)が整備されたと伝わる
1607年(慶長12年) 島津義弘が加治木に移り住み、隠居所とする
1619年(元和5年) 義弘、加治木にて85歳で死去。家臣13名が殉死したと伝わる
江戸時代 加治木島津家(島津氏分家)による加治木統治が続く
1784年(天明4年) 加治木島津家6代・久徴が郷校・郁烏館(育英館)を設立
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ゆかりの武将

晩年をこの地で過ごした人物

島津義弘ゆかりの城

飫肥城 加治木館

よくある質問

Q. 加治木館とは?

大隅国加治木(現・鹿児島県姶良市加治木町)にあった屋敷で、島津義弘が関ヶ原の戦いの後、晩年の隠居所として過ごした場所。

Q. 島津義弘はいつまでここにいたのですか?

1607年(慶長12年)に加治木へ移り住み、1619年(元和5年)に85歳で没するまでの晩年をこの地で過ごした。

Q. 加治木館は今も見られますか?

建物自体は現存しないが、跡地は小学校・高校の敷地となっており、隣接する加治木護国神社には義弘終焉の地を示す碑や石垣の一部が残る。

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