鳴海城とは
鳴海城は尾張国愛知郡鳴海(現在の愛知県名古屋市緑区)に築かれた城である。応永年間(1394年頃)に安原宗範が築いたと伝わり、当初は織田氏の勢力圏にあったが、天文21年(1552年)に城主・山口教継が織田方から今川方へ寝返ったことで、今川義元の尾張侵攻における最前線拠点へと性格を変えた。
教継父子が今川義元によって粛清された後は、今川氏譜代の岡部元信が城将として入り、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いでは今川方の最前線として織田方の諸城と対峙した。義元討死後も元信は籠城を続け、義元の首級と引き換えに開城するという義理を通したことで知られる。合戦後は織田方に接収され、佐久間信盛・信栄(信盛の子)が城主を務めたのち、天正年間頃に廃城となったとされる。
1394年頃
安原宗範により鳴海城が築かれたと伝わる
1552年
城主・山口教継が織田方から今川方へ寝返り、今川義元の尾張侵攻拠点となる
1558年頃
山口教継・教吉父子が義元により粛清され、今川氏譜代の岡部元信が城将となる
1560年
桶狭間の戦いで今川義元が討死。岡部元信は籠城を続け、義元の首級と引き換えに開城する
1560年以降
織田方に接収され、佐久間信盛・信栄(信盛の子)が城主を歴任する
1590年頃
廃城になったとされる
永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで今川義元が討死した後も、城将・岡部元信は鳴海城で徹底抗戦を続け、義元の首級と引き換えに開城した。この後、信盛が鳴海城主となり、子・信栄と共に長く在城した。1580年、石山本願寺攻めの不手際を信長に咎められ高野山へ追放された。