なぜ信貴山城の戦いは起きた?
松永久秀は三好長慶の家臣から大和一国を支配する立場まで上がった人物です。信長の上洛時に従いましたが、1572年に一度離反し、赦されて再び従っていました。
1577年8月、上杉謙信の南下や本願寺の抵抗に呼応する形で、久秀は再び信長に背きます。天王寺の陣を離脱して信貴山城へ籠もりました。
戦う直前の状況
大和では筒井順慶が信長方として久秀と長く争っており、順慶は織田軍に加わりました。久秀の与力の多くも離れています。
1577年10月|大和国・信貴山城
織田信長に二度目の謀反を起こした松永久秀が、信貴山城で織田軍に包囲され、自害した戦いです。
信長は久秀が所持する名器「平蜘蛛茶釜」の献上を条件に助命を打診したと伝わりますが、久秀は応じず、茶釜とともに果てました。
大和の支配は筒井順慶に一本化され、畿内の織田支配が固まります。
| 戦名 | 信貴山城の戦い |
|---|---|
| 時期 | 1577年10月 |
| 場所 | 大和国・信貴山城 |
| 現在の場所 | 奈良県生駒郡平群町(信貴山城跡) |
| 両軍 | 織田軍 vs 松永軍 |
| 主な武将 | 織田信長、松永久秀 |
| 結果 | 織田軍の勝利(松永久秀滅亡) |
松永久秀は三好長慶の家臣から大和一国を支配する立場まで上がった人物です。信長の上洛時に従いましたが、1572年に一度離反し、赦されて再び従っていました。
1577年8月、上杉謙信の南下や本願寺の抵抗に呼応する形で、久秀は再び信長に背きます。天王寺の陣を離脱して信貴山城へ籠もりました。
大和では筒井順慶が信長方として久秀と長く争っており、順慶は織田軍に加わりました。久秀の与力の多くも離れています。
兵力の数字は、軍記物に由来するものを含め史料によって大きく開きがあります。ここでは広く引かれている数値を挙げていますが、実数はこれより少なかったとする研究もあります。
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誰がどこで動き、どの勢力がぶつかったのか。参戦武将をタップしながら、戦いの流れと人物のつながりを追えます。
1577年10月
大和の支配は筒井順慶に委ねられ、翌年からの指出検地・城割(一国一城的な整理)が進みます。
畿内で信長に公然と敵対する勢力は本願寺だけになり、1580年に石山本願寺が退去して畿内の平定が完了しました。
畿内の在地勢力が織田の秩序に組み込まれていく過程を示す一戦です。「実力で成り上がった者が、より大きな実力の前に整理される」という戦国後期の流れがここに表れています。
有名な逸話ですが、同時代の確実な史料には見えません。江戸時代以降に広まった話とされます。
信貴山城の戦いは、1577年10月に大和国・信貴山城で行われた合戦です。織田信長・松永久秀が戦い、結果は織田軍の勝利(松永久秀滅亡)でした。
信貴山城の戦いは1577年10月に大和国・信貴山城(奈良県生駒郡平群町(信貴山城跡))で起きました。
織田軍の勝利(松永久秀滅亡)
織田信長、松永久秀が参戦しています。