職制としての「軍師」は確立していなかった
戦国時代に軍師という役職が制度として置かれていたわけではありません。もとをたどると、出陣の日取りや方角を占い軍配を振るう「軍配者」が近い存在で、宗教的な役割を帯びていました。竹中重治(半兵衛)や黒田孝高(官兵衛)が軍師と呼ばれるのは後世の評価によるもので、実際には所領を持つ家臣として、作戦立案だけでなく城の受け取りや交渉も担っています。
調略という仕事
軍師の働きとして史料に残りやすいのは、戦う前に敵を減らす仕事です。敵方の国人や家臣に誘いをかけて寝返らせる、和睦の条件を詰める、人質のやり取りを仲介するといった交渉が、合戦そのものより結果を決めることが少なくありませんでした。黒田孝高が備中高松城の水攻めと、その後の毛利氏との即時講和を差配したのはその代表例です。
軍師像はどこから来たか
現在広く知られる軍師像—主君の傍らに座り、扇を手に策を献じる参謀—は、江戸時代の軍記物や講談で形づくられた面が大きいものです。山本勘助のように、長く実在が疑われ、のちに発見された文書で実在が裏づけられた人物もいます。この図鑑では、軍記物にしか出てこない逸話と、書状や記録で確認できる事柄を書き分けるようにしています。








